デジタル情報の身体性 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
デジタルの記事を書き終えました♪

春休みなのに、なぜ論文(もどき)を書いてしまったかというと・・・

基本的に、こういうのを書くのが好きなんですね(笑)

第四章以降は、いつもの悪いクセが・・・ほとんど意味不明ですね(苦笑)



『デジタル情報の身体性』

序章:デジタルとアナログ
 デジタルとアナログの本質的な差異は、どこで生じるのでしょうか。それは、連続(アナログ)と非連続(デジタル)であるとされています。

アナログ:物質・システムなどの状態を連続的に変化する物理量によって表現すること。-Yahoo!辞書-

デジタル:物質・システムなどの状態を、離散的な数字・文字などの信号によって表現すること。-Yahoo!辞書-

 つまり、両者は同じものの別な表現だということになります。表現された両者(アナログ情報/デジタル情報)の特徴を挙げるならば、アナログ情報は連続的であるために正確であり、デジタル情報は非連続的であるために処理がし易い(コピー可能である)ということでしょう。

アナログ信号は連続的で無限の正確さを伴う。-wiki-

デジタル処理では、数値は離散化してあり中間値を持たないため~中略~元の数値データを劣化無しに復元可能である。-wiki-


第一章:失われにくい筈のデジタル情報
 では、この前提を踏まえて本題に入りたいと思います。言葉の意味(シニフィエ=言語記号によって意味される内容)は、言葉の配列によって決まりますから、言葉はデジタルな表現だと言えます。デジタル情報は配列に依存しておりコピーが可能ですから、本来的に失われにくいものの筈なのです。現代に生きる我々が、何千年もの昔に書かれた文書の意味内容を知ることが出来るという事実が、そのことを示しています。それでは、デジタル情報が失われるのは、どのような原因によるのでしょうか?

第二章:読み取りデバイス
 ロゼッタストーンが解析されるまで、ヒエログリフは全く読めませんでした。これは、読み取りデバイスが失われたことを意味しています。言葉の場合は、言語体系の背景となる文化そのものが読み取りデバイスとして機能しています。デジタル情報が失われる原因の1つに、このような読み取りデバイスの喪失が挙げられます。読み取りデバイスの喪失は、現代のデジタル化社会においても起こり得ます。FD⇒CD⇒DVD⇒BDとデジタル情報を収納する主要な媒体が変化していく。すると、例えばFDのみに収納されたデジタル情報は、いずれ読み取りデバイスの喪失の危険にさらされる。これはデジタル情報のサバイバルの構造であるとも言えます。デジタル情報は増殖可能ですから、ここには淘汰の原理が働くことになる。つまり、より多く増殖されたデジタル情報が、より長く生き残っていくという図式です。しかし、前述のヒエログリフの例でも明らかなように、読み取りデバイスの喪失によるデジタル情報の喪失は、読み取りデバイスを復元することで(ある程度まで)回復が可能です。

第三章:デジタル情報の身体性
 言葉と言葉の表情(シニフィアン=言語記号の音声面)は切り離せません。言葉の表情はコピー不可能なものですから、言葉の表情はアナログ的な表現だと言えます。発せられた声、書かれた文字、これがアナログ情報になります。このことは、人間がデジタル情報をそれのみでは受け取れないということを意味しています。同じことは、全てのデジタル情報についても言えます。なぜならば、情報を受け取る人間が身体的な存在だからです。デジタル情報は、必ずアナログ情報を伴わなければ認識されない。つまり、アナログとデジタルは分離不可能であるということ。これは身体(アナログ情報)と精神(デジタル情報)の関係性に似ています。ここで重要なのは、身体が失われれば精神も失われるということです。精神がそれのみでは表出せられないのと同じです。デジタル情報はそれのみでは表出せられない。必ず身体を伴わなければならない。ここに、デジタル情報が失われる主要な原因が潜んでいます。

第四章:絵
 言葉の配列がデジタル情報である一方で、絵はアナログ的な側面(個体性)を強く持っています。絵の本質は、コピーされ得ない表情にこそあるからです。コピーされた「絵」は、描かれた絵そのものでは有り得ません。それでは、最初からデジタル情報として描かれた絵はどうでしょうか?個体性(一回性)を失った作品の捉え方というのは、現代の美学でも大きな問題となっています。ここには、何か別の論理が必要になってくる。ロラン・バルトは「作者の死(作品の中に作者は居ない)」ということを述べましたが、デジタル(精神)とアナログ(身体)という関係を考えるならば、作者そのものである精神(作者の頭の中の作品=デジタル情報)がそのまま身体(描かれた作品=アナログ情報)になることは有り得ません。そこにはアナログ的な操作(描くということ)が介在しているからで、アナログの身体性というものが外部からの影響を拒絶できなくしています。つまり、描くこと、描かれた絵、描かれた絵を受け取ること、それぞれの分離が必要なのかも知れません。描くこと、はアナログ的な操作です。デジタル情報として描かれた絵の情報、これはデジタル情報です。そして、端末(PC画面など)で表出せられたデジタル絵、これはアナログ情報です。何故ならば、それは身体を伴っているからです。身体を伴わなければ人間は情報を受け取ることができません。身体それ自体はコピー不可能(この場合ではPC画面の個体/状況差)なので常に個体的です。逆に言えば、その身体性こそが、描かれた絵が他者に受け取られることを可能にしていると言えます。

第五章:コミュニケーション
 アナログ情報はコピー不可能ですから、これは個体的な意味を持つと考えられます。一方で、デジタル情報はコピー可能ですから、これは普遍的な意味を持つと考えられます。たとえ同じ文章(デジタル情報)を読んでも、読むごとに音声面が(僅かではあっても)異なるのと同じことです。つまり、表出せられた言葉は言葉の表情(アナログ情報)と切り離せませんが、コピー可能な言葉の配列(デジタル情報)それ自体は普遍的な意味を持つことになるのではないでしょうか。デジタル情報は精神に似ていると述べました。前述したように、表出せられたデジタル情報は必ずアナログ情報を伴っていなければならないのですが、これを逆から考えると、デジタル情報がそれのみでは受け取れないということを意味しています。しかし、ここに身体としてのアナログ情報が混ざることで、他者と共有できるものが生じる。ここに、コミュニケーションの原点があるのではないでしょうか。

終章:我々を繋ぐもの
 この世界は身体性の世界です。表出せられた文字、表出せられた音、表出せられた絵、これらは全てアナログ情報です。しかし、精神と身体は分離不可能です。これら身体としてのアナログ情報には、全て精神としてのデジタル情報が含まれている。個体的であるアナログ情報と普遍的であるデジタル情報の分離不可能な結合こそが、身体性の世界にあって、個々に孤立的である我々を繋いでいるのではないでしょうか。