え~・・・ようやくテスト用レポートを書き終わりました~♪
といいつつ、必要量の倍近く未整形の文章が・・・
↑いつも必要量の2~3倍の量を書いてしまう人
せっかく書いても誰にも見てもらえないんじゃツマラナイ・・・
ということで、提出しない分の一部を公開します←発表したがり(笑)

『デリダのように』
デリダのように、常に文脈(コンテキスト)に従って言葉を捉えようとする考え方もあります。この考え方に従えばナンセンスな表現というものは存在しません。たとえば、「僕はあるでもないでもない」という文章も、この論全体の中で考えればナンセンスの例文として機能しているということになります。この考え方はウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の中で「私の言語の限界が世界の限界を意味する(5.6)」と述べていることと似ています。しかし、この考え方は全てを言葉の中に閉じ込めてしまう。言葉を、そこから永久に抜け出すことの出来ない牢獄にしてしまいます。
シニフィエ(言葉の意味内容)は言葉の配列に依存しますから、これは連続した時間に属すると考えることができます。故に、シニフィエ(言葉の意味内容)は文脈によって変化することが可能です。しかし、言葉の意味が変わるのは文脈によってだけではありません。メルロ=ポンティが言うように人間が受肉された存在であるからです。シニフィエ(言葉の意味内容)が連続した時間に属する一方でシニフィアン(言葉の形や音=言葉の表情)は瞬間に属しています。応答の可能性は、言葉が表情を持っているからこそ生じるのではないでしょうか?言葉が常に表情を持って提示されるということ。文字においては、字体や色、あるいは背景とのコントラストの強弱など。音声ならば声の調子や大きさ、音域など。言葉と言葉の表情とは切り離せません。言葉の表情が変われば言葉の持つ意味自体も変容します。言葉の表情が変われば、相手の反応が異なる可能性があるということは、そのことを物語っています。
シニフィアン(言葉の形や音=言葉の表情)によっても言葉の意味が変わるということは、我々はシニフィエ(言葉の意味内容)だけでは世界を記述できないということになります。つまりそれは、世界というものの把握がシニフィエ(言葉の意味内容)だけではなくシニフィアン(言葉の形や音=言葉の表情)にも依存しているということを意味します。故に、ウィトゲンシュタインが述べた「私の言語の限界が世界の限界を意味する」という言葉の牢獄も無限に拡張できることになります。なぜならば、同じ言葉の配列であっても言葉の表情によって言葉の意味は無限に拡張されていくからです。
考えた結果、以下の文は納得がいかなかったので外すことにしました。1/17
「この形や音に依存する部分の世界把握として、芸術というものが立ち現われてくるのではないでしょうか。」