
カントが「物自体は認識できない」と言う時。
この認識する主体は何を指しているだろうか。
デカルトが「我思う」と言う時。
この我は何を指しているだろうか。
私の手が、この机に触れる時、
私は、この手の媒介によって感覚を得る。
感覚なき自我など想像もできない。
心身の分離不可能性は、そこから生じる。
これは言葉のミスリードなのだ。
「私」なるものは存在しない。
常に「我々」のみが存在する。
この手、この眼、この鼻、この舌、この耳。
感覚なき自我など想像もできない。
これら感覚が統合され「私」なるものが構築されている。
この統合されたもの(=精神/心)に
「私」という形を与えているのは思考である。
そして思考は言語によって形成される。
言語とは、まさに形を与えるものである。
つまり、「私」なるものは言語的思考によって与えられている。
これは言葉のミスリードなのだ。
私なるものが「私」と言う時、
そこには既に「我々」という意味が含まれている。