「どっちでも良いんじゃない?」で済まそうとする話 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

  
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「感性的価値は文化同士をつなぐだけの普遍性があるか」
-Kathleen Higgins-


文化によって感性的価値が違うのならば、

美学は(ある範囲の)文化上の言葉の問題になってしまうのではないか?


かつてデリダは

「日常世界の背後に絶対的な真理が隠されており、それは言葉(ロゴス)によってとらえることができる」(Yahoo!辞書)

という西欧形而上学の中心原理をロゴス中心主義と呼び、

この考え方を脱構築する必要を述べた。

つまり、僕らは現象を(僕らの文化の)言葉で記述したいのか、

それとも真理(普遍)を追及したいのか、という問題になってくる。


物理学者パウリは

「観測による原子的物体の情報の取得には、その他の何がしかの情報の喪失を伴う。この代価を取り消すことは、決してできない。例えば観測者が、物体のエネルギー・運動量の情報と同時にその物体の存在する時空点の情報を得ることを、自然法則は許さない。どの情報を取得し、その他のどの情報を失い取り戻せないとするかは、互いに排他的な実験設定から1つを選択する、実験者の自由意志にゆだねられる。」

と述べているが、僕らも美学にその観点を導入するべきだろうか。

つまり、知性と感性(あるいは文化と個人)の融合を図るのではなく、

それぞれの基準の独立を図り、その基準の中でのみ美の判断を記述するのだ。


かくて真理はダブルイメージとなり、

僕らにその真の姿を明かすことを拒絶する。

このようなこと(ダブルイメージ)に関して言葉は何もなすことがない。

というのも言葉の本性は形相に属し

事象/事物そのものについては何も語り得ないからだ。