絶望という美 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

  
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「もののあはれとは畢竟この永遠の根源への思慕でなくてはならぬ」-和辻哲郎

 (注:〈もの〉には根源(イデア)があり、この〈ものの根源〉は〈個々のもの〉の内に働き〈個々のもの〉を〈ものの根源〉に引く。これはきわまることなき永遠の道であり、〈もののあはれ〉とは畢竟この永遠の根源への思慕でなくてはならぬ。というのが和辻の〈もののあはれ〉に関する考えです。)
 
 美学の授業で、僕はひとつの質問を出しました。それは「〈もののあはれ〉が永遠への思慕ならば、それは西洋の感性的価値〈相対的永続性〉と共通点が見出せるのではないか」というものです。

 この質問に対する先生の答えは「西洋の〈相対的永続性〉とは、作品自体が長持ちする傾向があるということで、作品内容が永遠を目指すということではない」というものでした。先生がそのように仰るのならば、それに対する反論を僕は持ちません。しかし、それを踏まえてもなお考えられることがある気がします。以下は、その考察です。



『絶望という美』

 芸術を〈行為〉として捉えたら、どうであろうか。作品を個化させる傾向もまた、永遠への思慕とは呼べないだろうか。彫刻、絵。人の内から出たものにせよ、瞬間を切り取ったものにせよ、それはリプレゼンテーション(表象=再現)されることにより、永遠への方向性を持つに至った、とは言えないだろうか。

 一方に永遠の美があり、それに近づいていかんとする試み、それを芸術とは呼べないだろうか。西洋において、芸術とはサバイバルである。より美しい作品は、より長く生き残る。この永遠への果てしない道程の途上で、芸術=美という意識が生まれたとは考えられないだろうか。故に、この芸術は信仰という形をとる。果てしなく長い道の向こうに、永遠の美へと到る扉があるという信仰である。かかるが故に、この信仰は美である。

 かたや瞬間の美がある。永遠へと到達することのない美である。個々の瞬間は、その儚さ故に美しい。ここには、美という言葉に表されたひとつの分岐点がある。瞬間を融解して無へと至る儚い道程。永遠の美に対して、瞬間の美は絶望という形をとる。永遠の存在を認めながら、そこには到達できないとする絶望である。そして、この絶望は、その儚い道程の途上で、個々の瞬間に美しさを認めるに至る。かかるが故に、この絶望は美である。