納得のいかない話 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
 哲学の授業では「デカルトの懐疑(私は本当に存在しているのか?)」について様々な角度から学んでいるのですが、前回の講義終了後に「デカルトの懐疑についての率直な感想を述べよ」というリアクションペーパーが用意されました。

僕が書いたのは↓


 -ものごとには、そもそも決まった形があるわけじゃない。形を与えているのは、僕らの言葉だ。神であれ無であれ、僕らは、その言葉で形を与えている。つまり、形がないという形を。ゆえに、僕は、現象を言葉が取り囲むのではなく、言葉が現象を形作っているのだと考える。だから、デカルトの懐疑に対してはこう答えるだろうーあなたが「私」という言葉を使った時点で、あなたは「私」になったのだーと。



・・・お気づきのように、かなり挑発的な文章です。率直に言って、先生がどのように反論されるかが知りたかった。

これに対する先生の反論はこうでした↓


 -言葉によって言葉で表現できないものを表現するということは確かに出来る。つまり言葉で表現できないという言葉で。しかし、我々が言葉以前に体験することがあるだろう。いや、あるのです。言葉が存在を生み出すというのは、誰が考えてもおかしい。



 僕が納得できないのは、この反論です。僕が問うたのは、言葉が存在を生み出すかどうかではなく、言葉が存在という形を確定しているのではないか、ということ・・・つまり、言葉以前の存在は揺らいでいる・・・存在しないという可能性(確率)を内包しながら存在している。確かに、巨視的な視野に立てば(つまり僕らのスケールで考えれば)存在が不在に変わるという可能性はあり得ないと言ってもよい。でも、微視的な視野に立てば(つまり量子的なスケールで考えれば)存在は存在しないという確率を同時進行させながら存在している。

 僕が問うたのは、このことなのです。僕らの足元は常に揺らいでいる(量子揺らぎ)・・・つまり、言葉以前の状態は、存在する/しない、の2者択一ではないのではないか(重ね合わせ)・・・そして、言葉が僕らの認識に「存在という形」を与えてしまっているのではないか(量子デコヒーレンス)・・・これが、現在の僕の疑問で、この問いに先生なりの考えを述べて欲しかったのです・・・先生は反論する時に「言葉以前の体験というものがあるでしょう・・・いや、あるのです」と逡巡しながらも、結局は断言してしまった・・・この逡巡そのものに僕の問いかけがあるということを、僕が「ものごとには、そもそも決まった形があるわけじゃない。」と書いた意味に気付いて欲しかった。それが悲しかったかな・・・

P.S.
 授業の中で全員の色々なリアクションに対しての一応の応答という形式の一部だったので、僕が反論する時間は与えられませんでした・・・念のため。ちなみに、僕は前期の表象文化論でも同じような疑問をぶつけています←確信犯(笑)