自由という名の支配 | 想像上のLand's berry

想像上のLand's berry

言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
 理性によって世界の秘密を解き明かすことが出来ると、

 そのように人は考えるかも知れない。

 しかし、我々には確定できないものが存在するのもまた事実だ。

 ―「これは、ロゴスに対する戦いなのだ。」



『自由という名の支配』

イメージ 1


第一章

 今の世界は自由の支配する世界だ。

 今や、自由が僕らを束縛する。

 皆が自由であらなければならない。

 皆が自由であるためにはこうすべきだ。

 皆が自由であるためにはこれは許されない。

 今や、自由が僕らを束縛する。


 美は既に奪われた。

 現代の芸術を見るがよい。

 ただの生活用品、ただの写真のコラージュ。

 彼らの理想のどこに美があるというのか。

 それは既に奪われた。

 束縛する自由に奪われたのだ。


 彼らが、
 
 「美は自由だ!

  だから芸術も自由だ!」

 と叫びながら、

 必死で作っていたのは、

 ゴミの山ではなかったか。

 今や、

 高次の芸術は灰塵に帰した。


第二章

 今の世界は自由の支配する世界だ。

 自由に対する冒涜が、

 神に対する不敬のように聞こえはしないか?

 いつの日か、

 我々は自由の像を拝んでいるだろう。

 あるいは、既に身に覚えがないか?


 自由、神、完全。

 それらは無とイコールで結びつけられる。

 つまり、そんなものは存在しないのだ。

 本当の自由がどこにあるのか。

 神が自由へと変わっただけに過ぎない。

 いまや自由の名の元に全てが退けられるという訳だ。


第三章

 今の世界は自由の支配する世界だ。

 「人は自由でなければならない。

  全ての人が自由であるためには、

  お互いが平等でなければならない」

 では人間とは何だ?

 それは意識か?それは遺伝子か?

 では意識のない人間は人間ではないのか?

 遺伝子的には同一である受精卵の段階でも人間と言えるのか?

 クローンはどうだ?それはクローン人間であるとして差別するのか?

 遺伝子情報を弄って人間と動物の合の子を作ったらどうだ?

 つまり、だれも人間である論理的根拠を持たないということだ。

 現在、我々が人間として呼んでいる姿は一時的な状態に過ぎない。

 やがて、その定義は変化し、拡散していくだろう。


第四章

 人間という定義が論理的に曖昧なものである上に、

 人間が他の動植物に対して特権を保持しえる

 論理的な根拠も存在しないと考えられる。

 キリスト教の主張する

 人間が神に似せて作られたという説は、

 進化論によって脆くも崩れ去ったし、

 「人間の持つ論理的思考の故に、

  人間が他の生物よりも優れている」

 という考え方も危険だろう。

 論理的思考を身につけられない人間はどうするのだ?

 論理的思考を身につけられない人間は、

 人間としての特権を保持しえないのか?

 この考え方を進めるとナチスになる。

 ナチス政権下、遺伝的に劣等であると判断された人間は排除の対象だった。

 そもそも、完璧な人間など存在しない。

 ナチス式の考え方では、誰もが排除の対象となり得るということだ。
 
 我々は、この考え方を葬り去った。それは我々自身を滅ぼすからだ。


第五章

 人間という定義が論理的に曖昧なものである上に、

 人間の特権的な地位に対する論拠も存在しない以上、

 前記の条文

 「人は自由でなければならない。

  全ての人が自由であるためには、

  お互いが平等でなければならない」

 は、効力を持たないことになる。

 この隙間に様々な問題が生じている。

 現在、前記の条文は、

 「人」を「皆」に置き換えて解釈されていると考えられる。

 すなわち、

 「皆が自由であるためには、

  皆が平等でなければならん」という訳だ。

 だが「皆」とはなんだ?

 それは民族のことか?

 それは種族のことか?生物のことか?

 「皆」という言葉を聞いて、人間以外の存在を連想する人もいる筈だ。

 いずれにせよ、「皆」が平等でなければならんということは、

 「皆」の中に入れないものは、何をされても仕方ないということだ。

 捕鯨問題などは、その境界線上で起きている。

 いずれ、その境界は広げざるを得ないだろう。

 「皆」の定義が曖昧だから、そうせざるを得ないのだ。

 人は食べない。犬は食べない。猫は食べない。

 では鯨は?牛は?豚は?

 いずれ、我々が何も食さない日が来るだろう。
 
 自由という名の支配の元に。


終章

 自由に対する冒涜が、

 神に対する不敬のように聞こえはしないか?