注:長文注意
なんで、こんな単純なことに思い至らなかったんだろう。
僕ら保守派にとって、ナショナリズムもリベラリズムも等価に思想に過ぎないのだ。それらは、僕ら保守派の論じるところではない。僕らが重視するのは経験、伝統、あるいは習慣と言い換えても良い。つまりこれは、エートスなのだ。ロゴス(思想)に対するエートス(習慣)の戦いなのだ。
前回の選挙で小泉圧勝に歓喜し、今回の選挙で民主党圧勝に落胆した人間の思想も、前回の選挙で小泉圧勝に憤慨し、今回の民主党圧勝で溜飲を下げた人間の思想も、僕らにとっては等価に思想なのだ。僕らが忌避するのは、つまり思想なのだ。バラク・オバマも鳩山由紀夫も小泉純一郎も、そして誤解を恐れずに言えば、アドルフ・ヒトラーも僕らにとっては等価に単なる思想なのだ。
戦前の日本人では、東条英機などは、むしろ敷かれたレールの上を走っただけのような気がするが、近衛文麿は思想だったし、石原莞爾は明らかに思想だった。今でも石原のことを毛嫌いする人間と崇拝する人間がいるが、つまりそれは、彼が思想だったからだ。僕らにとって、忌避するものは思想そのものだ。だから、僕らは過去を重視する。積み重ねてきたものを重視する。そこに教訓があるからだ。ナチスに勝ったのはリベラリズムではない。共産主義に勝ったのは資本主義ではない。人の自由は束縛されるべきか、束縛されるべきでないかは、僕ら保守派の論じるところではない。人は、あるがままにあるというのが保守派の考える人間の姿だ。
アドルフ・ヒトラーは思想だった。進化論によって認知された自然界の弱肉強食の掟を、人間界にも適用しようと考えたのがアドルフ・ヒトラーだった。僕は思想を持たない人間ではない。僕の結論はヒトラーとは全く逆だが、着想した点は同じだ。つまり、人間相互が平等ならば、なぜそれを(人間を含めた)自然界に適用しようとしないのか?というのが僕の思想であり理念だ。僕が肉食を拒否するのも、つまりは弱肉強食へのささやかな抵抗であり、人間に食されることでのみ存在を許される家畜という存在を容認したくはないからだ。だから、僕の理念は人間中心という社会構造の枠組みそのものを変えることだ。だけど、僕は自分の理念を実行するには大きな犠牲と悲しみが伴うことを知っている。それは、歴史上の経験から知っているのだ。だから、僕は自分の思想を忌避する。自分の思想すら忌避するのだから、他の思想は言うまでもない。自分の思想を忌避したことが、僕が保守派になった根本的な理由なのかも知れない。
保守派の立場は家畜というものの存在を、そして家畜の存在する社会というものを認めるものだ。つまりは、それが存在している以上、それは必要なものであり、家畜自身にとっても、いきなり野生に返らされて絶滅の危機に瀕するよりは、人間の糧となることで種を繋ぐ方が幸せかも知れないと考えるのが保守主義だ。だから、僕は肉であっても食卓に出されたのであれば食すことにしている。もちろん、それは僕には大きな悲しみと痛みを伴うことなのだけれど。この社会のなかで、僕のささやかな抵抗など、なんの意味を持つだろう。思想家としての僕と保守派としての僕はアンビバレンスで、僕の心はいつもせめぎあっている。
僕ら保守派は云わばブレーキだ。それは決して見栄えの良いものではない。新しいものは常により良く見える。僕らは、誰かが「チェンジ」と言った時に、「ちょっと待った」というのが仕事だ。それは決して格好の良いものではない。つまり、これはアルベール・カミュの描いたカリギュラとケレアの争いなのだ。僕は、あの戯曲を読んだ時から不思議に感じていた。あれは僕のイメージするカリグラではない。あれはカリギュラという名を持った思想、つまり、あれはナチなのだ。
思想に特有な点、それは敵を作るということだ。社会はこうあるべきで、現在の状況はこうだから、これからはこうするべきだ、というのが思想だ。そして、こうあるべきだという理想の社会に不要なものが、現在の状況において生じる。つまり、それが敵だ。僕らが忌避するものは、そうした考え方=思想そのものなのだ。
国粋主義と保守主義を同様なものとして捉えるのは、リベラリストの都合の良い解釈だ。その時点で既に相手の土俵に乗せられている。国粋主義も全体主義も共産主義も自由主義も資本主義も、言ってみれば同じメニュー表に載っているメニューなのだ。いずれかを選ばなければならない訳ではない、というのが保守主義の立場だ。「日本人は思想がない」という言葉で僕が本当に批判しようとしていたことは、つまり、ある看板(思想)が立てられると無批判にそれを受け入れてしまうことだったのだ。所得倍増、列島改造、郵政民営化、政権交代、政治主導、いずれにしても同じことだ。かつて、エドマンド・バークはフランス革命の推移を憂慮して書簡を書いた。僕ら保守派にとって、いずれの思想が、より優れているか、より正しいかは論じるところではない。それらは、いずれも等価に思想なのだ。僕らが忌避するものは、その思想そのものなのだ。そして、僕らが危険視するのは、フランス革命を支持し、ロシア革命を支持し、ナチスを支持した民衆そのものなのだ。だから、僕らはロイヤリストになる。あるいは貴族主義と言っても良いし、長老主義と言っても良い。つまり、それは伝統と経験、そして習慣=エートスを重視する立場だ。僕らにとっては、天皇制廃止論者も天皇親政を唱える人間も同等に危険なのだ。あるがままにある。それが保守派の寄って立つところだからだ。天皇制が消えゆく運命にあるのならば、それは自然に消滅する。つまり、自然に成り行きに任せるというのが重要なのだ。これが必要だとか、これが不必要だ、というのは保守主義の寄って立つところではない。
歴史の流れを見れば、思想(ロゴス)によって、人類が豊かになり繁栄したのもまた事実だ。思想はエンジンでありハンドルだ。だけど車にはブレーキも必要だ。僕ら保守派はブレーキだ。事故が起こることを常に憂慮している。人類の歴史の底流には、いつも僕らの存在があった筈だ。江戸時代に訪れた圧倒的な停滞は、保守主義者の支配する社会が、どのような道筋を辿るかを端的に示している。エートスは道徳という概念に近い意味も持つが、儒教的な道徳概念こそは江戸幕府による支配の最大の背景だった。あの時代、町は繁栄していたが、農村は時に悲惨な目にもあっていた。だが、社会全体としては安定していた。そこに平等なんてものは存在しなかったけれど。あの社会を幸福なものと見るか、不幸なものと見るかは、人それぞれだろう。言ってみれば、思想(ロゴス)と習慣(エートス)は車におけるエンジンとブレーキの関係なのだ。かたや進歩を司り、かたや停滞を司る。この文脈において進歩という言葉は必ずしも良い意味ではないし、停滞という言葉は必ずしも悪い意味ではない。それは、良い悪いという関係ではないのだ。進むか止まるか、それは状況によって判断されるべきだろう。ナチスを止めたのはリベラリズムじゃないし、共産主義を止めたのも資本主義じゃない。
近頃、ずっと疑問に感じていた。左対右という図式、分かりきったような議論。僕は、そのどちらにも組みしていないような気がしていた。僕は民主党を批判しているけれど、それは鳩山由紀夫(あるいは小沢一郎)が思想だからだ。微妙な問題とは云え、過去から現在に至るまで拉致問題(を重要視する姿勢)を批判し続けてもいるが、あれも思想だからだ。真の保守という言葉を掲げて北朝鮮制裁を叫ぶ連中は問題を履き違えている。保守という言葉を誤解している。僕らが危険視するのは、そういった思想そのものなのだ。あるがままにある。現北朝鮮政権が滅びゆく運命ならば、それは自然に消え去る。拉致された人や家族に同情心を寄せるのは、本来それとは全く別問題の筈だ。官僚を敵視する姿勢、隣国を敵視する姿勢。僕ら国民は、そのプラカードに従って彼らに権力を与える。その行為自体が危険だと考えるのが保守主義だ。
なんでこんな単純なことに思い至らなかったんだろう。
僕は保守派だ。
そして僕はエートスを求めてる。
僕自身は思想家でありながら、僕が求めているものはエートスだったんだ。
*文中敬称略
10/16追記(以下の章で、僕が「べき」と論じているのは、保守派の僕としてではなく、僕個人の率直な現状評価です)
僕は、日本は停滞を選択すべき時期に来ていると思う。少子高齢化、CO2の増大、資源の枯渇、全てがそれを指し示しているように感じる。自民党は積極財政、民主党は積極社会保障。いずれにしても同じことだ。今は消極策を打つべき時だ。飛行船日本丸をソフトランディングさせて、機体やエンジンを点検するべき時期が来ているように思う。肥大化した経済、自らの国土のみでは養えない程に増加した人口。僕は、この先50年間(失われた10年間を差し引けば40年間)は、停滞を選択して(流れに身を任せて)自らの状態を正常化させるべきだと思う。結果として、GDPが世界20位前後に落ちたとしても、それは止むを得ないだろう。わが国の国土で自ら国民を養う為には、その程度の経済規模が限度だろうと考える。藤井財務相が良く言っている内需中心という方向性は全く正しい。しかし、民主党には、どこから拾ってきたものか、高福祉という足枷が付き纏っている。それでは積極財政と何ら変わりはない。とにかく(財政を含めた)すべての経済規模を縮小させなければならない(というより、章の冒頭に掲げた現在の状況を考えれば、放っておけばそうなるだろう)。唯一、例外として良いのは宇宙開発で、これのみは全ての状況を一変させる可能性を秘めている。僕は、この先40年間は耐える時だと思う。それは、バラ色の展望とは全く違うものだ。