『表象と実在―その不確実性についての考察―』(レポート) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
 表象文化論の前期レポートです。短いレポートですが、丹精を込めて作った積もりです。第4章は意味不明かも知れませんが、僕は表象文化論を前期に担当された先生を非常に高く評価していたので、先生ならば理解して下さるかも知れないと考えて、敢えて加えたものです。結果は・・・評価して下さったように思います。




『表象と実在―その不確実性についての考察―』

第1章:もののけ姫
 宮崎駿監督の『もののけ姫』では、ある種のアニミズム的世界観が描かれている。もちろん、実際の歴史とは違うが、そこに描かれているのは、科学の発達を通して神殺しを行おうとする人間の姿だ。

第2章:不確実の歴史
 人類の歴史もまた、ある種の神殺しの歴史であったのかも知れない。不可知のもの、すなわち神を探求して、我々は、我々の周りから、不確実なものを追放していった。まるで、不確実性を恐れるかのように。それは媒体であるメディアを分解しようとする歴史であったとも云える。しかし、それは達成されなかった。石のなかに、木のなかに、精霊は見つけられなかった。道をつくり、橋を架け、空を飛んだ。夜を光で充たし、写真を撮り、月面を散歩した。それでも、まだ不確実なものは残っていた。
 メディアが内包する不確実性は、科学の進歩とともに、より接近してきた。かつてそれは、森の向こうに、川の向こうに、空の向こうにあるものだった。今日では、人は不確実性をケータイするようになった。現代社会はメディアに囲まれている。Tvの向こうに、ネットの向こうに、何があるのか、主観が知る術はない。それ(主観が認識したもの)は、メディアの向こうの実在にとっては既に過去だからだ。主観は同時に別の場所に存在することは出来ない。これが不確実性の根本的な理由だ。

第3章:仮想現実
 未来において、直接的に感覚器官の代用となるもの(仮想現実)が実用化されたと考えてみよう。感覚器官を通さずに、脳がアクセスできる端末があると仮定する。その端末を通して得られる経験は、仮想的だと見なされる。だが、現実の経験と、仮想経験と、一体どこに区別があるのだろうか。すべての経験は感覚器官を通して経験される。言い方を変えれば、我々の感覚器官自体がメディアなのだ。この段階に至ると、不確実なものと、確実なものの区別はなくなる。そもそも、確実なものなど証明できはしない。そのようなものは存在しないものと同様なのだ。実在なるものが何処にも存在しない。言ってみれば表象だけの世界。それが我々の世界なのではないだろうか。

第4章:コミュニケーション
 それでも、我々がコミュニケーションをし、社会を成立させていることを、どう考えれば良いのだろう。我々は、表象でコミュニケーションをする。音声も一種の記号であり、それは何かを表している表象でもある。ここで、筆者は主観を一点としてではなく状態として捉えてみたい。そもそも、主観それ自体が、これ、と指し示すことが出来ないものなのではないだろうか。ある思考の状態、ある感覚の状態、それらを総合した、ある状態こそが、主観の真の姿なのではないだろうか。量子論のように、巨視的な視点に立てば、(確率分布のように)おぼろげな輪郭は捉えられるが、微視的な視点に立つと、その存在は揺らいでしまう。いってみれば、主観自体が揺らいでいて、揺らぎながら存在している。筆者が、「私」と言った時、それは、筆者を取り囲む全てを含む。筆者が「私」と、何処か一点を指し示すことは出来ない。それでも、「私」は存在している。そして、主観が揺らぎながらも存在しているのならば、たとえ証明することは出来なくても(指し示すことが出来なくても)、実在も揺らぎながら存在しているのだ。不確実のなかに確実を内包し、確実のなかに不確実を内包しながら存在している。従って、実在の代わりになる表象も、揺らぐ存在を示唆している。それは、何処か一点を指し示すことはない。しかし、だからといって、すべてがまやかしである訳でもない。そこには何かがある。だからこそ、我々はコミュニケーションを行うことが出来るのだ。不確実とも確実とも云えないもの。理解と誤解を同時に含んだもの。それが表象なのではないだろうか。

脚注
*表象=実在の代わりになるイメージ
*メディア=実在(あるいはその代わりになる表象)と主観を媒介する媒体
*アニミズム=自然界の諸事物に霊魂・精霊などの存在を認め、このような霊的存在に対する信仰。(Yahoo!辞書)