
-複製技術時代の芸術作品-
アウラ(Aura):アウラと表記される場合には、ワルター・ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit(1935~39)において、伝統的な芸術作品の特質をしるしづけるために用いた概念を指す。この場合アウラは、芸術作品がいま・ここに結びつきながら一回的に現象する際の特有の輝きを意味し、伝統的な哲学用語としては「仮象」ないしは「美しい仮象」などに対応する。現代の哲学ないし芸術理論におけるアウラの用法は上掲論文に基づいている。
ベンヤミンは、基本的に自然現象に賦与されるアウラという特質を芸術作品に転用することで、近代芸術ならびに複製技術による芸術の存在様態を的確に把握しようとする。伝統的な芸術作品が現象する際に現れる近づき難さ=遠さを、崇拝対象の核心と同一視することによって、ベンヤミンは伝統的芸術作品の根底に存する価値を「礼拝的価値Kultwert」とし、芸術作品と崇拝物の存在様態との連続性を顕わにする。それに対して、いま・ここに原理的に拘束されることのない複製技術を基盤にする芸術形式(写真、映画)は、アウラをもたない。アウラなき芸術には礼拝的価値とは根本的に無縁な価値が割り当てられることになる。「展示的価値Ausstellungswert」である。正確にいえば、近代芸術は礼拝的価値から展示的価値への重点の移動期にある。同時に、原理的に礼拝的価値とは無縁の写真や映画も、逆にその展示的価値を抑圧して礼拝的に用いられることも可能であることをベンヤミンは示唆している。(Yahoo!百科事典)
かつて、ベンヤミンは複製技術時代の芸術作品はアウラを喪失し礼拝機能を喪失すると説いた。だけど、複製技術時代の芸術作品に、本当に一回性(アウラ)は無いのだろうか。
まず、イコンの図像を考えてみよう。イコンの図像は複製される。もちろん、それは複製技術時代の複製とは本質的に異なるモノだが、ひとまず、その事実は置いておいて、イコンにアウラ(と言ってよいものならば)を与えるのは、司祭が行う成聖*1であろう。つまり、理論上は、成聖が行われているか否かによって、全く同じ図像でも、聖なるイコンと、ただのモノとの区別が存在するということだ。これは、アウラを与える行為というものが存在することを示唆する。つまり、アウラは鑑賞者の方に存在する。(鑑賞者がモノにアウラを与える)
たとえば、2つ並んだ《モナ・リザ》を想像してみよう。2つの《モナ・リザ》は全く見分けがつかないものとする。だけど、《右のモナ・リザ》、《左のモナ・リザ》という区別は出来る。気付かぬうちに位置が変えられても同じで、その都度(鑑賞の度)、アウラが与えられていく。鑑賞者がアウラを与えたのだ。そして、目を逸らす度、そのモノからアウラを奪い返しているのだ。
それと同時に、伝統的な価値など、実際には存在しえない。だれも、そのモノの来歴(=そのもの自体)について、確かなことは言えない。おそらく、たぶん、そうであろうと言えるだけなのだ。ルーヴルに飾られている《モナ・リザ》が、レオナルド・ダ・ヴィンチによって描かれたものだとは、だれも言い切ることができない。おそらく、99%間違いないとは言えても、100%間違いないとは誰にも言えはしないのだ。つまり、そもそも、アウラなどという概念など必要ないことになりはしないか。
複製時代の芸術も「同じモノ」ではない。「同じようなモノ」であろう。それは、デジタル作品であっても同じだ。直接にデータを受信できる人間など、存在しはしない。全ては感覚器官によって変容されて受信されるのだ。それは、状況によって、作品自体が変容されて受信されることを意味する。我々は、アウラを否定した筈だった、しかし、それは、むしろアウラが無いモノなど存在しないということを示唆するのかもしれない。何故ならば、アウラを与えているのは、他でもない自分自身なのだから。
脚注
*1成聖(聖別):キリスト教で、神聖な用にあてるため物または人を一般的・世俗的使用から引き離して、区別すること。聖化。
*1成聖(聖別):キリスト教で、神聖な用にあてるため物または人を一般的・世俗的使用から引き離して、区別すること。聖化。