2008年に制作したレポートです。
序論
芸術とは何か。まず、それは芸術という文字を持ち発音される言葉である。そして、それは像を内包し、ラベルを貼り封をされ、受け手に伝達される瓶詰めのようなものである。受け手はラベルに従い封を開け、しかるべきところに整理をして解釈をする。しかし、その像自体が伝わるわけではない。同じラベルを貼ったものが受け手の中に存在するのならば、それが解釈となる。故に芸術と一言いうだけでは、それは厳密な像を持ち得ない。
人間同士の伝達手段として、言葉は形式のようなものだ。人は経験則により、それぞれにラベルを貼り、人と人が共通の理解を得ているものだと信じている。しかし、それを証明する術はない。全く同じ解釈など存在しない。全ての人は、生命は、主観的な存在であるからだ。それでは、芸術とは、なにか。孤立した主観的宇宙の中で、それはどういう像を持ち得るのだろうか。
筆者は芸術を孤立的主観が客観的世界を描写しようとする試みであると考え、それを論証していく。本論に入る前に前提を確認して置く。我々は芸術と芸術的ということを区別せねばならない。芸術的ということは、個々の価値判断によって看取されるものであり、ここで論じようとする芸術とは異なるということである。次に筆者は芸術を、まず最大限に広義に捉えてから、徐々にその範囲を狭めていくことで定義づける。つまり、人が作った全てのものを仮芸術と捉え、その後に幾つかの概念を組み込むことで、線引きをしていく。筆者は、その仮芸術を作品と呼ぶことを予め断わって置く。
第一章:作品の独立
まず音楽を考えて見る。人が作曲、もしくは作詞をする動機などは様々であろう。しかし、それでも何かを書いたという事実だけは存在する。それは作者の内にあった何かが具体的な形をとって外に出たということだ。しかし演奏がなされなければ音楽は表現として意味を成さない。譜面におこした、ということは、建築に例えるならば、設計図を引いただけに過ぎない。次の段階では、設計者から表現者である演奏家へ曲が伝えられる。彼らが、それを解釈し演奏することで表現として成立する。しかし出来上がったものが個々の主観によって変容されたものであることは言うまでもない。さらに演奏された時の物理的状況によって曲は全く別の様相を見せるだろう。
作者の主観から見るならば、自分の手を離れた瞬間、言い換えるならば、自分が手を加えなくなった瞬間が完成、という考えがあるかも知れない。しかし作品が作者の内側にあるものをそのまま表現したものであることはありえない。それは外側からの影響というものが存在しているからで、さらに人間の感覚が捉える範囲に制限があるということ、そして表現する手段が無限では無い、ということにも由来している。これは音楽以外の作品を考えても同様であり、全ての作品は作者の内的世界と外的世界の合作であると云える。これは作品を作者と切り離した一個のオリジナルと見なせることを示唆する。例えるならば、作者の内側と外側との間に出来た子供のようなものだ。作品自体を一個のオリジナルな存在として捉えるならば、完成ということはありえない。何故ならば時間の経過や環境の変化とともに、常に変容していくからだ。人が生まれてから、死を迎える時まで、完成ということがありえないのと同様である。
まず音楽を考えて見る。人が作曲、もしくは作詞をする動機などは様々であろう。しかし、それでも何かを書いたという事実だけは存在する。それは作者の内にあった何かが具体的な形をとって外に出たということだ。しかし演奏がなされなければ音楽は表現として意味を成さない。譜面におこした、ということは、建築に例えるならば、設計図を引いただけに過ぎない。次の段階では、設計者から表現者である演奏家へ曲が伝えられる。彼らが、それを解釈し演奏することで表現として成立する。しかし出来上がったものが個々の主観によって変容されたものであることは言うまでもない。さらに演奏された時の物理的状況によって曲は全く別の様相を見せるだろう。
作者の主観から見るならば、自分の手を離れた瞬間、言い換えるならば、自分が手を加えなくなった瞬間が完成、という考えがあるかも知れない。しかし作品が作者の内側にあるものをそのまま表現したものであることはありえない。それは外側からの影響というものが存在しているからで、さらに人間の感覚が捉える範囲に制限があるということ、そして表現する手段が無限では無い、ということにも由来している。これは音楽以外の作品を考えても同様であり、全ての作品は作者の内的世界と外的世界の合作であると云える。これは作品を作者と切り離した一個のオリジナルと見なせることを示唆する。例えるならば、作者の内側と外側との間に出来た子供のようなものだ。作品自体を一個のオリジナルな存在として捉えるならば、完成ということはありえない。何故ならば時間の経過や環境の変化とともに、常に変容していくからだ。人が生まれてから、死を迎える時まで、完成ということがありえないのと同様である。
第二章:芸術の芽
ある作品が主観の外側からの影響を免れえないものだとしても、主観の内側から出でたものを否定するものではない。それは、芸術の芽と呼べるものではないだろうか。例えば写真で火を写したとする。火を目撃しただけならば、それはただの物理的なものであり、作品ではありえないだろう。ただの火を美しいと思うことはあるかも知れないが、その火を作品とは呼ばない。それでは写真に写した火はどうであろうか。これは作品であると考えられる。何故ならば、そこには形が含まれているからだ。およそ全てのものは主観によって経由されることによってのみ形を与えられる。*1 筆者は、考えうる全ての作品は、感覚によって受容されたものが、主観によって変容され精神の一部となり、その精神が何らかの手段で表現された時に生じると考える。そして作品の端緒となる芸術の芽とは、精神を表現しようとする主観の意志そのものであると云えるのではないだろうか。何故ならば表現という形をとっている限り、そこには何らかの意志が必ず存在しているからだ。
極端な例を考えてみる。例えば吐く息は作品であるだろうか。普段、無意識の内に吐いている息は文字どおり無意識なので、ただの動物的な動作に過ぎない。しかし意志を込めて息を吐いたならば、それは作品の範疇に入るだろう。何故ならば、空気という主観の外側の材料が、意志の力で形を持ったものに変容させられたからである。ただ空気の運動の痕跡は残りづらく、息を吐いた人、その空気に触れた人のみが理解しえる作品であったと云えるだろう。もし意志を持って吹いた息の痕跡を何らかの手段で止めたのならば、それは、より広範囲な人が理解できる作品になるといえる。いずれにせよ、それは手段の差だけであり、作品か否かを決める差ではない。
ある作品が主観の外側からの影響を免れえないものだとしても、主観の内側から出でたものを否定するものではない。それは、芸術の芽と呼べるものではないだろうか。例えば写真で火を写したとする。火を目撃しただけならば、それはただの物理的なものであり、作品ではありえないだろう。ただの火を美しいと思うことはあるかも知れないが、その火を作品とは呼ばない。それでは写真に写した火はどうであろうか。これは作品であると考えられる。何故ならば、そこには形が含まれているからだ。およそ全てのものは主観によって経由されることによってのみ形を与えられる。*1 筆者は、考えうる全ての作品は、感覚によって受容されたものが、主観によって変容され精神の一部となり、その精神が何らかの手段で表現された時に生じると考える。そして作品の端緒となる芸術の芽とは、精神を表現しようとする主観の意志そのものであると云えるのではないだろうか。何故ならば表現という形をとっている限り、そこには何らかの意志が必ず存在しているからだ。
極端な例を考えてみる。例えば吐く息は作品であるだろうか。普段、無意識の内に吐いている息は文字どおり無意識なので、ただの動物的な動作に過ぎない。しかし意志を込めて息を吐いたならば、それは作品の範疇に入るだろう。何故ならば、空気という主観の外側の材料が、意志の力で形を持ったものに変容させられたからである。ただ空気の運動の痕跡は残りづらく、息を吐いた人、その空気に触れた人のみが理解しえる作品であったと云えるだろう。もし意志を持って吹いた息の痕跡を何らかの手段で止めたのならば、それは、より広範囲な人が理解できる作品になるといえる。いずれにせよ、それは手段の差だけであり、作品か否かを決める差ではない。
第三章:完全性への憧憬
存在を直接認識することは出来ない。人間は存在を間接的に認識する。たとえば哲学者ショーペンハウエルによれば「人間が知っているのはいつもただ太陽を見る眼にすぎず、大地を感じる手にすぎない」(注1)ということになるし、物理学者シュレーディンガーによれば「精神は、自然哲学者の言う客観的な外的世界を、すべて自分自身の素材で造りあげたのです」(注2)ということになる。筆者自身の言葉で述べるならば、いかなる情報も光の速度以上で伝わることはない。故に、我々が今について知り得ることは何ひとつない。我々が知り得るのは、常に過去のことのみである。この光の速度に存在している限界点こそが、我々が直接に存在を認識できない壁となる。その壁を乗り越えることは事実上、不可能であり、その壁こそが我々の存在に欠けている完全性の象徴であると云える。
では認識段階において、作品はどのように取り扱われるのだろうか。第一章では、人間の表現手段が完全ではない故に、作品は常に外的世界との合作となると述べた。不完全な表現手段によって表現された像が不完全な感覚器官によって認識される。それは完全性への志向を持っていると云えるのではないか。何故ならば作品の端緒となる芸術の芽は精神を表象しようという主観の意志であり、その意志は精神を完全に表象することを目的としていると考えられるからだ。たとえば主観の表象手段が完全なものであり、そして主観の感覚器官が完全なものであれば、そして光の速度という限界を想定せず、直接に存在を認識でき精神を伝達できると仮定するならば、なにかを表象する必要が生じず、必然的に作品も存在しないのではないか。鑑賞者を想定せずとも、主観の内にあるものと外にあるものを完全に再現できるのならば、主観の内にあるものを表現という手段で外に出す必要はないと考えられる。
筆者は写真を撮る。写真を撮ろうとする時、筆者は、その瞬間に感じていた感情なり感覚なりに封をしようとする。しかしそれは完全ではありえない。それは視覚以外の感覚を再現できないことにもよるだろう。そして写真には感情的な性質が付随していないことにもよるだろう。もし自分の精神を表象する、より相応しいものがあると考えるならば、筆者は迷わずそちらを選択するだろう。たとえば、絵、詩、音楽。筆者にとっては、写真が最も良く自己の精神を表象できると考えるから、筆者は写真を撮るのだ。もし仮に筆者が完全に世界を認識できるのならば、いついかなる時でも世界そのものを再現できる。*2 世界そのものを再現できるということは、精神の内と外との境界が無いということだと考えられる。従って完全に世界を認識できる状況では写真を撮る必要は生じない。そう考えるのならば、不完全なる主観の壁が芸術の芽を生じさせる、と言い得るのではないか。したがって芸術とは、完全性への憧憬を、その根底に秘めているのではないだろうか。何故ならば、芸術の端緒となる芸術の芽は、自己の精神を完全に表現しようという意志を持っているからである。
存在を直接認識することは出来ない。人間は存在を間接的に認識する。たとえば哲学者ショーペンハウエルによれば「人間が知っているのはいつもただ太陽を見る眼にすぎず、大地を感じる手にすぎない」(注1)ということになるし、物理学者シュレーディンガーによれば「精神は、自然哲学者の言う客観的な外的世界を、すべて自分自身の素材で造りあげたのです」(注2)ということになる。筆者自身の言葉で述べるならば、いかなる情報も光の速度以上で伝わることはない。故に、我々が今について知り得ることは何ひとつない。我々が知り得るのは、常に過去のことのみである。この光の速度に存在している限界点こそが、我々が直接に存在を認識できない壁となる。その壁を乗り越えることは事実上、不可能であり、その壁こそが我々の存在に欠けている完全性の象徴であると云える。
では認識段階において、作品はどのように取り扱われるのだろうか。第一章では、人間の表現手段が完全ではない故に、作品は常に外的世界との合作となると述べた。不完全な表現手段によって表現された像が不完全な感覚器官によって認識される。それは完全性への志向を持っていると云えるのではないか。何故ならば作品の端緒となる芸術の芽は精神を表象しようという主観の意志であり、その意志は精神を完全に表象することを目的としていると考えられるからだ。たとえば主観の表象手段が完全なものであり、そして主観の感覚器官が完全なものであれば、そして光の速度という限界を想定せず、直接に存在を認識でき精神を伝達できると仮定するならば、なにかを表象する必要が生じず、必然的に作品も存在しないのではないか。鑑賞者を想定せずとも、主観の内にあるものと外にあるものを完全に再現できるのならば、主観の内にあるものを表現という手段で外に出す必要はないと考えられる。
筆者は写真を撮る。写真を撮ろうとする時、筆者は、その瞬間に感じていた感情なり感覚なりに封をしようとする。しかしそれは完全ではありえない。それは視覚以外の感覚を再現できないことにもよるだろう。そして写真には感情的な性質が付随していないことにもよるだろう。もし自分の精神を表象する、より相応しいものがあると考えるならば、筆者は迷わずそちらを選択するだろう。たとえば、絵、詩、音楽。筆者にとっては、写真が最も良く自己の精神を表象できると考えるから、筆者は写真を撮るのだ。もし仮に筆者が完全に世界を認識できるのならば、いついかなる時でも世界そのものを再現できる。*2 世界そのものを再現できるということは、精神の内と外との境界が無いということだと考えられる。従って完全に世界を認識できる状況では写真を撮る必要は生じない。そう考えるのならば、不完全なる主観の壁が芸術の芽を生じさせる、と言い得るのではないか。したがって芸術とは、完全性への憧憬を、その根底に秘めているのではないだろうか。何故ならば、芸術の端緒となる芸術の芽は、自己の精神を完全に表現しようという意志を持っているからである。
第四章:表現=伝達
主観世界の何処にも主観自体は見出せない。主観にとって主観自身は如何なる感覚器官を持ってしても知覚できない。従って自己の精神を表現するということは、主観世界に主観自身を描きこもうとする行為である。主観世界に主観自身が描かれて初めて世界は客観になる。不完全の壁に囲まれた精神は完全を求めて主観の壁を乗り越えることを欲する。主観の壁が無いということは自者が他者になるということである。即ち客観である。見方を変えて捉えるのならば、精神を同時に伝達できるということである。同時ということは、光の速度の壁を越えているので、それは完全である。筆者はさらに同時=客観=完全という概念を提唱する。完全と客観が同義ならば、必然的に表象=伝達である。何故ならば、完全に表象することが客観になり、同時に伝達することが客観であるのと同義になるからである。
第五章:経験則からの離脱
精神を完全に伝達しようとすることが、芸術だと考えるのならば、必然的にそれは1つの方向性を持っていると云えるだろう。経験則から離脱する方向である。たとえば、ただの言葉も作品であるだろう。たった一言、空、というだけで、そこには世界が広がる。ただし、その世界は筆者が伝達したかった世界とは異なる。言葉は単なる形式に過ぎず、そこに示される内容は、個々の主観の経験により変化して形成されるからだ。像を伝達する行為において、経験に基づいた形式が存在するのは便利であるが、主観が完全に自己の精神を伝達しようとする上では障壁になる。ゆえに詩人は比喩を用いるのだろう。芸術が精神を完全に伝達することを目的としているのならば、伝えようとするものの内容を厳密に伝達しようという方向性を持っていることは極めて自然なことのように思われる。
主観世界の何処にも主観自体は見出せない。主観にとって主観自身は如何なる感覚器官を持ってしても知覚できない。従って自己の精神を表現するということは、主観世界に主観自身を描きこもうとする行為である。主観世界に主観自身が描かれて初めて世界は客観になる。不完全の壁に囲まれた精神は完全を求めて主観の壁を乗り越えることを欲する。主観の壁が無いということは自者が他者になるということである。即ち客観である。見方を変えて捉えるのならば、精神を同時に伝達できるということである。同時ということは、光の速度の壁を越えているので、それは完全である。筆者はさらに同時=客観=完全という概念を提唱する。完全と客観が同義ならば、必然的に表象=伝達である。何故ならば、完全に表象することが客観になり、同時に伝達することが客観であるのと同義になるからである。
第五章:経験則からの離脱
精神を完全に伝達しようとすることが、芸術だと考えるのならば、必然的にそれは1つの方向性を持っていると云えるだろう。経験則から離脱する方向である。たとえば、ただの言葉も作品であるだろう。たった一言、空、というだけで、そこには世界が広がる。ただし、その世界は筆者が伝達したかった世界とは異なる。言葉は単なる形式に過ぎず、そこに示される内容は、個々の主観の経験により変化して形成されるからだ。像を伝達する行為において、経験に基づいた形式が存在するのは便利であるが、主観が完全に自己の精神を伝達しようとする上では障壁になる。ゆえに詩人は比喩を用いるのだろう。芸術が精神を完全に伝達することを目的としているのならば、伝えようとするものの内容を厳密に伝達しようという方向性を持っていることは極めて自然なことのように思われる。
第六章:完全=無
ここにおいて我々は、芸術に対する1つの輪郭を得た。すなわち、芸術とは主観の内側から出でた意志と、外的世界の影響によって生じたもの。主観の内的世界と外的世界との間にある壁により、完全性への憧憬を秘めているもの。精神を完全に伝達しようとする意志により、経験則から離脱する方向性を備えているもの。しかし完全というものは、この世界には存在しない。先ほど述べたように、光速の壁が存在するからである。
結論
かくて我々の芸術とは、存在しないものを求めながら、どうしようもなく、そこに存在しているものである。それは、我々不完全なる存在の、完全性への憧憬そのものであり、それを動作として描写するならば、孤立的主観が客観的世界を描写しようとする試みに他ならない。
ここにおいて我々は、芸術に対する1つの輪郭を得た。すなわち、芸術とは主観の内側から出でた意志と、外的世界の影響によって生じたもの。主観の内的世界と外的世界との間にある壁により、完全性への憧憬を秘めているもの。精神を完全に伝達しようとする意志により、経験則から離脱する方向性を備えているもの。しかし完全というものは、この世界には存在しない。先ほど述べたように、光速の壁が存在するからである。
結論
かくて我々の芸術とは、存在しないものを求めながら、どうしようもなく、そこに存在しているものである。それは、我々不完全なる存在の、完全性への憧憬そのものであり、それを動作として描写するならば、孤立的主観が客観的世界を描写しようとする試みに他ならない。
引用
注1.ショーペンハウアー、『意志と表象としての世界Ⅰ』、西尾幹二訳、中央公論新社、2004、p.5
注2.エルヴィン・シュレーディンガー、『精神と物質―意識と科学的世界像をめぐる考察』、中村量空訳、工作舎、2003改訂版第三刷、p.71
注1.ショーペンハウアー、『意志と表象としての世界Ⅰ』、西尾幹二訳、中央公論新社、2004、p.5
注2.エルヴィン・シュレーディンガー、『精神と物質―意識と科学的世界像をめぐる考察』、中村量空訳、工作舎、2003改訂版第三刷、p.71