
「我あり」とは他者との連関で出来ている概念なのだろうか。我、と思う時点で既に、他者を連想しているのだろうか。それならば主観と客観の対立など存在しないことになる。僕は自身を他者の内に置いてよいのだろうか。だけど・・・境界は厳然と存在する。きっと、言葉の問題なんだ。我、という言葉は確かに他者を想定している。だけど“今”なんだ。問題なのは“今”なんだ。“今”だけは、誰とも共有できない。自分の体でさえだ。僕が問題にしたいのは、そこなんだ。我があるから彼がある、彼があるから我があるんじゃない。厳然とした“今”だけが、そこにはあるんだ。それは記憶と、連続と、そんなものには関わらない何かで。位置を占めるもの、この世界で位置を占めるもの、証明できないもの、存在。なにかが、なにか決定的なパーツが、欠けているような気がする。