❀FloweryNotes

〜フラワリーノーツ〜ピアノ教室です❀

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数日前の5/30、

坂本龍一のコンサート映画

Opus」を鑑賞しました。

そのためだけに宇治市から三ノ宮(神戸市)まで移動しました。

(片道1時間半往復3時間!)

 

コンサート映画なんて初めてで、

コンサートとも映画ともつかずあまり惹かれなかったのですが、

なぜそこまでして見に行く気になったか…?

 


それはお豆奏法仲間のゆきよちゃんが

とーっても素敵な感想をBlogでシェアしてくださったからです。↓


そうか!

これは従来の映画とは一線を画してるんだ、

一見の、一聴の価値ありじゃないかと。

見に行こーっ、と。

 


ところが公開期間は延長されつつも終了間近となっていて、

上映時間も一日一回で、

‟明日”しかないという状況💦

とにかく出かけた次第です。

 

席はとても空いていて、

ゆったりとした贅沢なシートに座ると、

貸切りにしているような錯覚さえありました。

(幸せ❤️)

 

 

実は先月4/27には、

ロームシアター京都で「TIME」を鑑賞しました。


こちらも映像なのか演劇なのか舞踊なのか、

TIME」の解説やPR動画を見てもよく分からなくて、

分からないまま観に出かけました。

なぜなら、お豆奏法提唱者のえりなちゃんが

絶賛されてたから。

ダンサーの田中泯にも興味がありました❤

 

TIME」、

私の感想なんてどうでもいいのですが、

お豆サロンのMちゃんに感想聞かせてと言われたんです(またまたお豆仲間笑)。


でも鑑賞後、感想が何も出てこなくて、

言葉にならないままひと月が経ってしまいました。


心の中に何か沈殿してるような感覚は

ずーっと、TIME」を見てからずーっと

あるのですが。

でもろ過できない、

そのまま見過ごしておきたいような、

そこに触れたくない感じで、

思い返せそうとすると心地よいような気持ち悪いような…。

言葉にできればどんなにスッキリすることかと思いながら。

 

そう言えば開演前に、

私の右隣の見知らぬ方の会話が聞こえて、

「職場の〇〇ちゃんにこの感想聞いたら、

初めての感覚でしたって、泣き始めて…」と。


言葉にならないのは私だけの感覚ではないようです。

 

それが約ひと月経ってOpus」を鑑賞し、

何か心の中が少し整って色々な感情が湧いてきました。

寄る辺のない感情に

やっと終止符を打てたような気がしました。

 


TIME」の舞台、

映像とも演劇とも舞踊とも

そのどれかでもなく、

どれでもあるような。

思えばその空間からして不思議で境目が曖昧でした。

大きなスクリーンと水と人。

ダンサーがいるのにダンスの要素はなく、

まるでスローモーションを見ているようで、

これは精巧な映像なのか⁇と、

生身の人間であることを目を凝らして何度か確認したほどです。

 

登場人物は3人だけ。

3人が揃って舞台上にいることはなくて、

ひとりか二人。

田中泯の舞踊を楽しみにしていたのですが、

舞踊はほぼなく、

でもあれも舞踊だと言われればそうかもしれない。


とにかく何にしても境界が曖昧で、

夢か現か、

区切りのないような世界観だったのです。

 

舞踊がなくて物足りなかったかというと

そうではなくて、

逆に田中泯の存在感が際立っていました。

その存在感が、私の胸に今も跡を残しています。

ある時は老人のよう、

ある時は一輪の花に見え、

荒波をバックに振り返った瞬間の

青年のような精悍な立ち姿はド迫力でした!

 

存在感と言っても、

‟老人”であり“花”としての存在感です。

衣装も変わらず過剰な演出のない

シンプル(に見える)な舞台で、

そのように変容して見えるのは、

田中泯がエゴなく、なり切っているから

そう見えるんだろうと思いました。

 

ところで「TIME」の坂本龍一の音楽、

これがハッキリ思い出せないのです。

恥ずかしながら。

笙の音色やせせらぎの音、

美しくも主張しない音楽が心地いいなあ、

と思ったっきり、その後の印象がない💦

それほど舞台に同化していて

場面ごとの抑揚はもちろんあるものの、

音楽だけを思い出すということができないのです。


スクリーンも水も人も

音もふくめた空間全体が

境目のない一つの生き物のようでした。

 

私の脳が区切るのに慣れているから、

判然としない気持ち悪さも後味として残ったのだと思います。


空間にも時間にも

元々区切りはないにも関わらず、

過去・現在・未来と分ける方が安心だと思ってしまうのでしょう。

区切りもなく判断できないままに、

そこにあるだけで、

坂本龍一の音楽も田中泯の存在も美しかったし、

特別なことはしていない(ように見える)けど、

至極芸術的でした。

 

 

私はたまに、ある人物にはまっちゃうと、

自分でも大丈夫かと心配になるくらいに、

寝ても覚めてもその人のことで頭がいっぱいになります。

…推しとか沼るということですよね。

全部を知りたくなって、

でも推しかと言われるとそうでもなく、

気がすむとパッと日常(!)に戻るのですが。

 

坂本龍一が亡くなる前年(一昨年)も、

そういう時期があって、寝ても覚めても

坂本龍一のことが気になっていました。

 

推し活(!?)としてチェックした

村上龍の「Ryu’bar」 という

バブル期の香りプンプンのトーク番組は面白かったです。


もちろん坂本龍一がゲストの回。

この2人は親友で、

当時まだとがって気難しさも感じさせる

坂本龍一が、村上龍には心を許して

会話してる感じが伝わってきました。

才能開花とバブルの波がピタリと重なって、

日本の一時代をあやつってるようにも

見えちゃう2人の本音や裏話、

しょーもない話題も2人の存在も

ひっくるめて魅力的でした。

坂本龍一が時折弱音のようなことを

ボソッと口にすると、村上龍はすかさず

「そんなもんだよ」「みんなそうだよ」

などと言って必ずそしてさりげなく

励ますのです。(笑)

 

この2人に、

やはり親友の見城徹が加わった対談では、

バブル後、時代の雰囲気も年齢も落ち着いて、

「あの頃は…」なんて言いながら

とりとめなく話してて。ずっと見てたい。

見城徹が初めて目の前にした教授は、

その時の対談の場所である実在のBarに、

モデルを何人もはべらせて入って来たそうで

「スゲーな!って、自分とは無縁の人間と思った。」とか。

 

坂本龍一のラジオも面白くて、

YMOのメンバーが絡んだりしたら、

エピソードが尽きず、

終わらないでーと思いながら聞きました。

3人が揃ったバラエティ番組(NHK)では、

隣に座った女の子に坂本龍一が

「何歳?今から一緒に出かけよっか?」

なんて軽口を叩くと、細野&高橋の2人は

「あの人変わんないねー」と呆れ顔。

 

とにかく「モテ男」だったのは有名で、

そりゃそうでしょうカッコイイし知的で、

音楽センスも抜群✨なわけですから。

あの当時あのルックスで

「Merry Christmas Mr.Lawrence」

「ラストエンペラー」を弾く姿を見ると

(もちろんYouTubeで)、

時空を超えて恋に落ちれます瞬時に💗

男の色香がある人、

その上ちゃめっ気あって笑いのセンスまで

あるんですから〜💯(ズルいゎ)

 

ところで坂本龍一の弾き方、

弦の振動を感じながら演奏しているようで

私がお豆奏法を知ってからは、

お豆っぽいなあ、と思っていました。


10年ほど前か、

矢野顕子がトーク番組で

「ピアノは私の方がうまいってずっと思ってましたけど、

最近彼(教授)の演奏を聴いて、

あれこんなにうまかったっけ?

私よりうまいかもって思いました。」

という風なことを話していました。

 

 

大分話が遠回りしましたが、

Opus」の演奏は2年ほど前の収録で、

'22年末にNHKでその一部が放送されました。

推し活中だった私はもちろん逃さず録画して

今もTVのリストに残っています。



コンサート映画「Opus」の最初の何曲かは

ペダリングの音が強調され過ぎてて、

これがどうしても耳障りに感じました。

NHKの番組ではそんなことなかったので、

この映画での演出だと思いますが、

正直違和感がありました。

ずっとこのままなのかと心配しましたが、

途中から過度な強調はなくなり一安心。

 

かつての色香漂う感じはなかったけれど、

年老いた坂本龍一も凛とした美しさがあって、

絵になっていました。


何よりも集中して音を出している緊張感が

伝わってきました。

若い頃の飄々とした感じはなく、

録音・録画されて作品になることを

意識しているんだろうなという

慎重さが終始ありました。


それでも弾きなれている

「Merry Christmas Mr.Lawrence」

などの名曲は、

少しの気楽さがありました。

(やっぱり慎重さとか緊張は、のびのびした演奏の邪魔になっちゃうんだなあと思いました。)

 

自分で産み出した作品を

とても丁寧に演奏する様子を見ながら

そのピアノを聴いていると、

終盤では坂本龍一の人生が

そこに凝縮されているように感じられました。

1時間ていどの撮影が限界だったと

番組で語っていたし、

余命宣告されてもいる身でありながら、

全身全霊で音楽している姿に、

自然と涙がこぼれました。


確かに一つの作品Opusになっていました。

 

 


帰宅して、まだしっかり読まないままだった、

芸術新潮2023/5月号を開きました。

坂本龍一追悼総力特集が組まれています。

 


「ぼくが『TIME』に込めたのは、

“時間は幻想である”というメッセージでした。

TIME』というタイトルを掲げ、

あえて時間の否定に挑戦してみた。」

 


「ぼくとしては、この形式での演奏を

皆さんに見てもらうのは今度こそ

最後の機会になるだろうという気持ちで、

緊張しつつ1日あたり数曲ずつを

丁寧に収録していきました。

NHK509スタジオでの収録〜Opusの演奏〜)

 



「(ピアノを)野ざらしの状態で

庭に置いてみることにしました。

それから数年が経ち、

幾度となく風雨にもさらされて

塗装もすっかり剥がれ、

今ではどんどん本来の木の状態に

近づいていっている。

このままどう朽ちていくのか―――

それは、ぼくたち人間のあるべき老い方

とも繋がるように感じます。」

(ピアノを自然に還す試み)

 

 

「TIME」、「Opus」、を鑑賞してこそ

理解できたのではないかと思えるような

教授の言葉の数々に、私は安堵しました。

 

時間の芸術とも言われる音楽、

瞬間瞬間の今と向き合うことでもあると

お豆奏法に出会って気付きました。


闘病しながら最期のときが迫る中、

坂本龍一の最後で最大のテーマとなったのは

音楽であると同時に「時間」だったのでしょう。


庭に置かれた痛ましいピアノの写真、

私は「そんなことしなくても」と思ってしまいましたが、

抗うことなく自然に還ってゆくピアノに

教授の心は

慰められ癒されたのかもしれません。