岡本太郎
今日の芸術は、
うまくあってはならない
きれいであってはならない
ここちよくあってはならない
この言葉に接して、戸惑いを感じる方は多いと思います。
そして次に、「あーあの岡本太郎さんなら」と作品を思い浮かべて納得するかもしれません。
けれど、岡本太郎美術館にいって、作品に会ってくるとまた、違った印象になると思います。
息をのんで、楽しく、ここちよくなっていくからです。
ここで、「ここちよさ」について、西野流呼吸法からも考えていこうと思います。
なぜなら、呼吸法の稽古で、「自分の身体にここちよさを感じること」を、判断の基準として大切にしているからです。
普段からよく使っている言葉=「ここちよさ」の否定とれる岡本太郎さんの言葉を、どう捉えていいのだろうか・・・・
ここで、キーワードとなったのは、岡本さんの「今日の芸術」という「今日」という言葉です。
岡本さんが作品を多く発表されたのは、日本が経済的に豊かになり、多くの人が芸術作品に触れることも多くなった時。
既成概念として、美しいものが独り歩きしている状態。ここにはがゆさを感じていたのではないかと思います。
岡本太郎の”書” ドキドキしちゃうから
猛〈もう〉
自分が興奮しなきゃいけない、
自分がそれに追いついていかなきゃいけない、
努力しなきゃいけない、
何か安心して見られない、
したがって何か抵抗を感じる。
それをぼくは芸術だと思う。
だから芸術というのは、
ここちよくあってはいけない。
ここちよいというのは
自分程度のものだから
ここちいいのだ。
「抵抗」という言葉もキーワードとして、あることを思い浮かべました。
それは、”重力”です。
〈重力に抗して背骨の中を通って息を吸いあげる〉足芯呼吸
何か抵抗を感じるため、岡本太郎さんは、ここちよさを否定しました。
西野先生は、今を生きる方法として重力という抵抗を呼吸に意識的に使われたのではないか・・・と思います。
岡本太郎さんと西野先生は、『既成概念に縛られない、瞬間を生きる力をひらく』という大本で、同じ方向を向いているのではないか、そう思えてなりません。
「私たちが生きている時空というのは、決まりきった予定の上に成り立っているわけ
ではありません。瞬間、瞬間に未知との出会いがある、かけがえのないものなので
す。」・・・「”知的身体”とは充実した”気”の溢れる、全身が”感性”と化した身体で
す。」西野皓三 気の奥義から
私は、呼吸法を実践しているから、岡本太郎さんの作品と言葉に会うことができたのだろうと思います。