生命エネルギーの躍動
真の自由とは、自分の身体を細胞レベルで体感することによって、初めて得られるものなのです。
ルールや仕組みはあくまでも作られたものですから、その中で自由を得ようとするとことごとく壁に突き当たることになります。
確かに社会という集団を形成するためには、仕組みやルールが必要です。
それがなければ、社会の秩序が保たれません。
しかしながら、社会のルールはあくまで最大公約数でつくられたものです。
個々の生き方にとっては不都合なことが多い、そのために人々は悩むのです。
その仕組みから脱するためには、まず壁にぶつかりながら、抵抗を感じながら行動することです。人はややもすると「自由にいきよ
うとすると、壁にぶつかるだろう」と考えて、行動を起こす前にあきらめがちです。しかし、様々な壁にぶつかり抵抗を感じながら
その中で自分の自由をどう切り開いていくかが大切なのです。・・・・・
人というのは一人の生物的存在ですが、人との交流うがあって初めて人間としての存在があります。
人間となったとき、自由になります。人と人との間合いがあるから人間なのです。
その間合いをいかにとるかということが、生き様になります。
その間合いのとり方を、頭脳で戦略的・策略的に考えるためには多大なエネルギーを使います。
西野流呼吸法では、頭脳に寄らず体で間合いを自在にとれるように稽古をします。それが“対気”という独特のメソッドです。
”対気”は人と人とが生命エネルギーの双方向コミュニケーションによって、知らず知らずのうちに間合いを体得する方法なのです。
長く引用させて頂きました。最初はすっと読んでいたのですが、再度、再々と何度も読み返していくうちに、どういうことなんだ
ろうと、疑問がでてきました。
"最大公約数でのルール” ”自由を切り開く” ”間合い” ”人間になる” ”双方向コミュニケーション” “対気”
自由を切り開くことと間合いが結びつかないままに、なっていました。
・・・もしかすると対気は、人は、自由を阻害する存在であると同時に自由を切り開いていく助けをする存在であることを認識するメソッドなのでは? しかも知らず知らずのうちに体得でき、爽快になるメソッド
ここで一休み 先日指導員さんが、対気の中で「受け入れる」と声をかけていらっしゃいました。
受け入れる 対気を勝負と考えて、負けまいと身体を固くして、防御してしまいがちですが(私です)
エネルギーは意外と・・・・・出ていないのですね。
双方向コミュニケーションでなく、勝つか負けるかの勝負になっていましたね。(私です)
軌道修正しながら自由を切り開いていこう、対気で双方向コミュニケーションしていこう
軌道修正 = 受け入れながらも丹田から気を出す