哲学史を網羅的に把握する必要があるのではないかと、考え始めた。フーコーの言うエピステーメ(その時代を支配する思想体系のようなもの?)がやはり時代ごとにあるのだと思った。実存主義の時代のフランスの思想や考え方は興味深いけれど、人間が主人公で、人間が歴史を作るなどという歴史観には私は支配されていないのを自覚した。

 ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』『イェルサレムのアイヒマン』や『スヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチの『戦争は女の顔をしていない』をはじめとする一連の作品、マルジャン・サトラビの『ペルセポリス』など私はそうした女性達の書き物に惹かれる一方で、サルトル以降のフランスの思想家に惹かれる。『ディスタンクション』のピエール・ブルデューは、何故妹のところの次男があんな生き方しか出来ず20代で亡くならなければならなかったか分からせてくれ、その哀れさに泣いた。ミシェル・フーコーは多分構造主義の時代の私たちの意識のあり方を支配していたのだと思う。権力の網の目構造という考え方を教えてくれたのもフーコーだ。おそらく今の時代の主人公は人間ではない。

 今の世界は難民だらけで、罪のない人々が虐殺されていて、ある意味、共産主義に夢を託せた時代はまだ良かったと思う。ソ連も中国も全体主義としか言えない統治体制を取った。そして、人々を苦しめ、殺害した(ソ連は粛清で68万人、大戦で2000万人。カンボジアでポル・ポトは少なくとも170万人の自国民を殺害した。中国は農業政策の失敗で大勢の餓死者を出しているし、文化大革命の死者数は1000万人とも言われていて、天安門事件での死者は1万人以上とも言われている)。何が出来るのか。アーレントの言うように常に考えることを放棄しないことが、大切なのかなあと思う。アイヒマンにならないために。