戦後のパリをのぞいているような本。カミュ=サルトル論争やボリス・ヴィアン宅でのメルロ=ポンティとカミュとの論争、レヴィ=ストロースのサルトル批判など、サルトルの実存主義を中心に回っていたフランス思想界が構造主義を中心とする流れに変化していく以前を活写している。私自身はフーコーが『性の歴史』を書いている時期にフランス思想にかぶれたので、戦後世代のサルトルやカミュの実存主義への人々の熱狂のようなものが分からなかったけれど、戦後の共産主義に対するフランス知識人の思いやスターリンが出て来たことでの葛藤や幻滅、そして必要悪としての粛清、暴力擁護をするメルロ=ポンティとカミュの決別など歴史の只中で捉えられたフランスの知識人達の在り方が簡潔で分かりやすく描かれている。カミュ=サルトル論争は当時サルトルに軍配が上がったが、今、ロシアや中国などを見ると、共産主義、全体主義に組しようとのしなかったカミュが正しかったのではと、この論争の見直しがされる必要があるのではと著者は言う。カミュの『正義の人々』のカリャーエフの話は文芸部で話に上ったことがあるが、幼い子供をテロに巻き込むなど論外、何故こんなことを今更議論として取り上げる?と当時でも思ったものだ。ソ連の政治体制をナチスと同じ全体主義に分類するなど考えも及ばなかった時代なのだと思う。

 そして、ジョルジュ ・バタイユもサルトルに対するアンチテーゼではなかったか?

バタイユの「内的体験」に対する反対物が「投企」であり、将来手にすべき成果を推測して現在時点で行動するというのは「実存を将来に延期する」ことであるとバタイユは批判する。「絶対知」に至りついた知が「非-知 nonsavoir」に変換するのは、知を活用する手立てを持たない「絶対知」が全ての知識の有用な意味を奪われるからだという。

 戦後のフランス思想を有機的に繋いだ本として読み応えがある本である。