空
いつからだろうか、こんなにも空を見上げることが多くなったのは。
はっきりとはわからない。
しかし、私は空が大好きだ。
空は神秘の世界であるといっても過言ではないだろう。
空は絶えず変化してゆく。
今一瞬の姿は、瞬きをした次の瞬間に別のものとなっている。
足早に歩いてゆく人々よ、立ち止まって空を見上げてほしい。
静止していると思われた雲が、わずかではあるが風に流されていることに気づくであろう。
その動きは雄大で、せこせこと先を急ぐ私たちに、安らぎを与えてくれる。
たまには、雲のようにのんびりと漂って見たいものである。
空が最も美しく見えるのは、夏を感じ始める五月初旬頃ではないだろうか。
しかも、雨上がりの朝。
雨が空気中のごみを吸収して落ちてくる為か、雨上がりの空はみずみずしく青い。
その青が眩いばかりの新緑とうまく調和しているのである。
しかし、このように青い空は、東京にとって貴重な色である。
かの有名な高村光太郎の「智恵子抄」の中に、
「智恵子は東京に空がないといふ、
ほんとうの空がみたいといふ。」
という書きだしの詩がある。
智恵子には、安達太良の青い空こそが空なのだ。
この詩を初めて知ったとき、私にはこの智恵子の思いを理解することができなかった。
ではなぜ、ほとんどの人が「空」といったら「青空」を描くのだろうか。
私たちは、すでに、幼稚園におけるお絵かきの時間で空を青く塗りたぐっている。
なぜ青なのか。
今すぐにでも空を見上げてほしい。
この空のどこが青なのか。
けして青とはいえない。水色である。
更に視線を遠くに向けてほしい。
目に映るのは白い空なのである。
一時、私はある友達と日課のように教室の窓から空を眺めていた。
私たちが望むのは新宿方面の空である。
水色に移ることさえ稀である。
いつみても、雲がかかっているのではないかと疑うほど白いのである。
まるで晴れている日がないかのように。
更に、風がない日は目をそらしたくなる。新宿上空は「灰色」で覆われている。
こんな空を誰が好き好んで眺めるであろう。
いつしか、私達は毎日のように、空を眺めることはしなくなった。
このとき、ふと智恵子の言葉を思い出し、それが消して妄言ではないことを痛烈に感じた。
東京の空を汚すことによって、私達は夜の楽しみを失いつつある。
東京の空は、一等星くらいしか私たちの前に姿を現すことを許さない。
どんなに切望しても天の川を見ることはできないし、流星群が来ると騒がれても、「群」と呼ぶほど星は降ってこない。
誰でも一度は行ったことのあるであろうプラネタリウムでは
「今日の夜、本当はこんなにたくさんの星が見えます」
とく文句とともに、おびただしい数の星を見せることが多い。
しかし、私はこの言葉を信じようとはしなかった。
そのような世界は想像上のものであると決め付けていた。
ところが、私はその事実を素直に受け入れることができる機会を得た。
それは、オーストラリアの片田舎での夜空である。
北半球と南半球であるから、見える星が違うことは、さそり座が頭のてっぺんで輝いていたことで気づいた。
しかし、そのようなことはどうでもよかった。
そこは、まさにプラネタリウムの世界だったのだ。
否、プラネタリウムの電光はこの大自然の輝きと、比べるに値しなかった。
何億、何十億とあるであろう星々は、所狭しと満天に光っている。
その中を、ひときわ密集した星の群が自然な流れを作り上げていた。
それはまさに「川」と呼ぶにふさわしく、私が見たいと恋焦がれていた天の川であった。
私は、その星々に魅せられ、いつまでも飽きずに仰いでいた。
決して忘れることはないだろう。
そして、東京の空を見上げてため息を漏らす。
空が私たちに見せてくれる姿は、その時、その場所でしか味わうことができないのである。
日の出とともにオレンジに染まってゆく空、日没とともに紫にうつりゆく空、風になびかれ偶然に出来上がった雲の模様。
もちろん星空も。
どんなに美しく、心を惹かれても、その姿は残すことができない。
いくら高性能のカメラを用いても、自分の目に映った姿とは異なってしまう。
だからこそ、この空の営みをいつまでも残していきたい。
50年後も、美しい姿に安らぎを求められるように、空の源である青空を守っていきたい。