この写真が鍵つきの引き出しにしまうほど大切なものなのだろうか。ひとに見られてはいけないような写真なのだろうか。ただ、一人の少年が映っているだけではないか。
そう思いながらも、写真をバッグに忍ばせた。引き出しの鍵をしめ、鍵はもとどおり『万葉集』の箱にもどした。こうした行為になんの意味があるのか。自分でもわからなかった。
そのあと、母に言われたとおり、ひととおり全ての部屋をほうきで掃き、窓ガラスを乾いた雑巾で拭き、前庭の雑草を抜いた。それだけで、大仕事だった。コーヒーを飲みたかったが、もはや水道もガスも使えない状態になっている。私はコートを羽織り、財布を手にして外に出てみた。近辺に店屋はないが、自動販売機ぐらいあるだろう。
ぶらぶら歩いていると、そこがほんとうにいなかだということがわかった。田圃が遠く山すそまで広がり、稲はすでに刈られたあとだ。あの刈りあとを踏みしめてみたくなる。祖父母は早く亡くなったので、この家に来たのはずいぶん小さな子どもの頃だったような気がするが、あの刈りあとを踏んでみたいという衝動は変わりなく、おそらくその頃見た風景もさして変わっていないのだろう。
「川上治平」
その人はこの近所に住んでいた、あるいはまだ住んでいるのだろうか。私はまばらに並ぶ家の表札を一軒ずつ確かめていった。だが、「川上」という表札は見当たらなかった。
やっと自動販売機を見つけると、私は冷たい缶コーヒーを選んで、その場で栓を開け、一気に飲み干した。それぐらい喉が渇いていた。
太陽は西に傾きかけている。急いで帰らねば。
帰路はゆるやかな下り坂で、私は小走りになって祖父母の家にもどった。
全ての窓を閉め、鍵をかけ、バッグを抱えると、もう一度、亡き父が過ごした部屋を見てみた。昔風の振り子時計はいつからか止まったままで、父の性格のようにまっすぐに掛かっていた。