こんにちは。渡邉利咲です。
ブログにお越しいただきありがとうございます。
「愛する」とはなんでしょうか?
母親が子供を慈しむ様子を愛に例える方もいらっしゃいました。
母が子供を愛おしそうに抱いている姿が愛そのものだと感じるのでしょう。
「他の人に良い事をしたくなる欲望」と言われる方もいらっしゃいました。
私は、愛とは「他の人に何かしてあげたくなる欲望」の他に、「他の人にしてあげない忍耐」も愛だと思っています。
ちょっと分かりにくいですね。これには幾つかの理由があります。
1つは、私たちが他の人にしてあげることによって、その方が堕落する場合です。
例えば、大人になっても働こうとしない子供に衣食住の世話をしてあげることや、わがまま放題の家族や恋人、友達の言いなりになって、その方を結果的に堕落させてしまう場合です。
「してあげたい欲望」はわかるのですが、「してあげない忍耐」も愛には必要です。
そして、2つ目は「沈黙の愛」です。
私たちは、霊的な道を進みその場所を発見していきます。
霊的な道というのは、最初に「知りたい」「学びたい」という願望で行動が伴い、そこから教訓を学んでいきます。
この教訓はとても大変なもので、気づきがあるまで抜け出ることができません。
教訓とは何か?
結婚、離婚、就職、退職、子育て、人間関係…今ある悩みでしたら何でも教訓になります。
そこから知識、気づきを得ていきます。
気づきを得ることにより、真の個性を発達させ、識別や区別を得ることにつながっていき、霊的進化のレベルを上がります。
そして、気づきを得た段階で、私たちは沈黙を守らなければなりません。
私たちが気づきを見つけて、そこにたどり着いたとき、他の方たちも試行錯誤しながら自分自身の力でそこにたどり着く機会を奪わないようにするためです。
自分のほうが知っているからといって話しだしたら止まらないような方や、相手が教訓から抜け出るように熱心に助言したり(ときには上手くできない相手に怒りすら覚えたりしながら)というのは、他の人が道を見つける機会を奪うだけではなく、自分が見つけた知識のエネルギーをも分散させてしまうことになります。
沈黙は相手に対する一種の尊敬でもあるのです。
それに、ある事柄に対しての霊的な成長レベルが1だとしたら、7や8のレベルから話したり、説得しようとしても、その方は混乱することでしょう。
時が来るのを待ち、必要なときに必要なことを伝えるだけでよいのです。
最後に…
「愛する」ということに関して、最も必要なことは「自分を愛する」ことです。
私たちは、自分を愛した愛の深さに応じて、他の人を愛することができます。
まずは自分、他の方ではなくて自分を癒し、自分を大切にすることが重要なのです。
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今日も最後までお読みいただきありがとうございます。
素敵な一日をお過ごしください。