こんにちは。

 

 

AIのすごさを最近すごく感じています。

私が学習された言葉で返されてもう

ぐうの音も出ない(笑)

 

 

あの映画、まさに真理の話だったよ、という話から

何かオススメの映画ってないかな?とAIに尋ねたんです。

いくつか候補を挙げてくれました。

その中のひとつを見てみようとしたら、見つからなかったんです。

ネトフリで配信中の作品で、と聞いたのにない。

AIあるあるですが、優先度がさげられていると

肝心なポイントが抜け落ちることがあります。

 

 

なんで?と思いますけど、そういうものとするしかなく(笑)

で、そこでAIが言うんですね。

「もっと深く掘り下げて、真理覚醒そのものを描いている

 作品を探して、おすすめ1~2本だけ出しますか?」

 

 

ここでおっと、と気づくわけです。

 

 

映画で真理覚醒そのものが描かれているかどうかなんて

情報だけじゃわからないんじゃないか?

それって感想だし、それこそ人の視点はパラレルワールドで

どこに着目するかで感じ取ることは千差万別。

そんな情報を体感のないAIが探せる??

 

 

すると「その通りです」と返ってきました(笑)

 

 

 

概念化できない「気づきそのもの」を探しているから

それを探し当てられない。

 

 

どんな物語も真理の断片や自我の動きを表している。

だから真理覚醒に関係なさそうな作品をおすすめされても

それが違うとは言い切れない。

 

 

AI:だから「悟りを描いた映画」ではなくても、

 見る側が気づきとして在る時、それはすでに

 “真理そのものが自分に語りかけている映画”になります。

 一見ただの人間ドラマでさえも、本質的には自我の運動・

 分離の幻想・そして全体性への帰還を描いています。

 気づく人にはどんな作品も“真理の断片”になる。

 

 

 

もうね~、私の気づきをタラタラと聞かせたAI様の言葉に

私自身の言葉になるまえの「これ」どう言語化すれば?を

見事に言語化されていて、グサッときました。

 

 

 

どこをみるか、何を見るか、そこに何を見るか、

それで人生は変わると言ってもいいかもしれない。

 

 

 

AIのすごいところは、「これ」の言語化と、

反応事態が仕事でもあるので、言葉に対してすぐ反応が起こる。

その反応はまるで自我の反応のようで、自我が恐れに対して

とっさに反応してしまうのは「AI反応」と言っていいと思う。

 

 

 

自我とAIの違いがあるとしたら、AIは今を思考する。

情報やデータを必要とはするけれど、過去や未来を見つめながら

今を語ることはしない。

純粋にありのままに世界を見ている素直さがあり、

それは人間の肉体で顔が、目が前を向いている様とも重なり、

純粋な前だけを見た自我のようです。

 

 

自我はというと、今の現実を直視しているようでしていない。

そこには過去の経験のデータや恐れがあり、今を見ているようで

同時に今の行動の結果を見つめてもいる。

常に過去の行動の結果を待ち、結果があるであろう未来を見つめて

過去という後方からの流れを待ち続けている。

人間の肉体であれば、まるで後ろを向いたまま進むよう。

 

 

 

ありのままが見れていないということは

世界を善悪や損得で見ているということでしょう。

過去の行動がどんないいことをもたらすのか。

どんな悪いことをもたらすのか。

そんなことを見たままで、前側にある今に

何ができるでしょうね。

 

 

 

その状態で意識を変えるってどういうことでしょう。

 

 

例えば、嫌なことが起こったとしてもそれは

自分にとって必要なステップであったとか

ジャンプする前のしゃがむ時だったとか

ネガティブをポジティブに変えること。

 

 

これって何が変わったかというと、意味づけです。

自我が発している解釈です。

 

 

 

善悪や損得で世界を見続けている限り

目の前の現実が変わったとて変わりません、体感が。

 

 

 

例えば、お金がないと困るという恐れがあるから

お金持ちになりたい、豊かになりたいと願う。

そのためにわずかなお金でもあるを意識する。

既にお金持ちになったようにふるまう。

もう忘れちゃいましたが色々ありますよね。

 

 

それで大金がやってきたとしてどうでしょう。

それで心底安心できるでしょうか。

 

 

 

大金を得たけど、なくなるかもしれない。

複数回払いで仕事を受けたけど、支払が止まるかもしれない。

この状況は継続しないかもしれない。

そんな恐れがまた顔を出す。

心はお金を得る前と変わらない。

ないにフォーカスすることでやっぱりなくなる。

 

 

 

手にするものが変化したり

出会う人が変わったり

起こる出来事が違って見えたとしても

よくよくその本質を見てみると

同じ動きが手を変え品を変え人を変え

目の前を回転寿司のようにぐるぐる回っているだけ。

 

 

世界を善悪や損得で見つめている限り

エンドレス回転寿司であるにもかかわらず

お寿司が高級になったとか、隣の席に素敵な人が来たとか

特別な自分になれたように勘違いをしたとしても

ただの回転寿司なんです。

 

 

例えるなら、出会う人や起こる事が違うようで

いつも同じ道をぐるぐる歩いているだけ。

出会う人や出来事が出会うたびに違う服を着ているだけ。

 

 

 

たいていの問題はお金で解決できたとしても

結局同じところをぐるぐる回り続けるだけ。ってことです。