こんにちは。
スピリチュアルの世界で、宇宙視点で物事を見るとか言いませんか?
それって、この世界で起きていることの見方を変えてみたり、
実は小さなことにこだわりすぎていて、全体を捉えていなかったり、
自分都合でこの世界をどうにでもできる、という発想に繋がることもある
そんな話ではないかと思います。
自分自身はこの肉体に詰められた個ではなく、全体である。
その次元で物事を見ることは、この宇宙視点で表現できるかもしれません。
本当の自由な自分に戻る参考にしてみてください。
イメージはイメージでしかなく、実体ではないので、
自由自在に広げたり縮めたりできますよね。
その要領でイメージしてみます。
自分がイメージできる宇宙というものが、
それこそが自分であるというイメージです。
宇宙はただそこにあるだけで、今も拡大しているという説もありますが、
地球上のこの個に縛られた私たちの日常のように
なにかが起こることはありません。
全部が自分ですから。
その中では数多の出来事が起きているかもしれませんが、
それはとても些末なことで、全体にはなんの影響も与えません。
自分が宇宙全体だったとしたら、それはどんな感覚でしょう。
ほかの誰かとぶつかることも摩擦を起こすこともなければ、
分離された個の存在だとも思わないのではないでしょうか。
自分が宇宙全体であるとイメージして、その何も起こっていない生活って
それは暇だと思う人もいるかもしれません。
個の私は、タスクもあれば朝昼晩と食事もしますし、
目が覚めている間は、なにかしら出来事が起きています。
その一切がなくなったとしたら、それは退屈かもしれません。
全体である私たちには、何も起きていません。
その変わり、この肉体を通して地球上での生活を
感じることができるようになっています。
この肉体と活動する、自我という存在とともに。
それは、退屈だからテレビを見ている、映画を観ているようなものです。
そのテレビでどんなニュースが報道されていようが、
その映画のなかでどんな人間模様が描かれていようが、
それを見ている全体の存在には何の関係もありません。
なんの影響もありません。
私たちはもしかしたら、退屈だから、
全体である自分の存在=スクリーンに
映像を映しているのかもしれません。
その映像がどんなにリアリティがあったとしても、
それは映像でしかありません。
私たちはなにも変化していません。
映像であるこの地球上で、肉体に備わった自我こそ自分だと生きてきて、
この身に降りかかる幸せも不幸も、自分に起きていると思って生きてきて、
ところがどっこい、それは映像でした、というオチです。
その映像にハッとしたりホッとしたり、一喜一憂する感情を持つのは
自我そのものです。
自我はその映像の中で生きている存在です。
物語の中で感覚を駆使して、感情を抱き、とっさに反応し思考します。
そのこと自体には何の問題もありません。
止めることができないことだからです。
ですが、
それらは全て、映像の中の出来事です。
宇宙目線の自分から見れば些末な出来事。
何の影響も受けないし、些末すぎて対処も必要なければ、
本当の自分である全体の自分は、何も対処していません。
その出来事にあれこれと感情を抱き、こうしたい!という
コントロールしてやろう感を発揮する自我が、反応しては
その出来事に対処しようとし、対処しているでしょう。
不安に対して、あぁどうしよう!!!(頭抱える)
という反応をしているのは自我であって、
そこに同調する必要はありません。それは愛ではないので。
宇宙全体であるにもかかわらず、どこかの星の個人間の諍いに
宇宙全体で対処するなんてことがないのと同じです。
あぁ、不安を感じて頭を抱えているんだな。
そう観察するだけの存在が宇宙全体=自己です。
不安を感じている感情に乗っからずに、
観察することを繰り返してみましょう。
自我は対処したがります。
この状況を変えるために何かしたいと。
暴れる自我は自由にして大丈夫です。
自己からすれば、何の影響も受けないことであると認識するだけ。
それだけで、自我と自己は別物という感覚が芽生えるかもしれません。
本当の自分である自己は、恐れもなく、求めるものもなく、
ただ心が平和な状態です。
自己と自我は別だと理解できると、その平和な心が当たり前になります。
特別なことではありません。
自己と自我は別ものであって、自我の思考や感情に
同調せずにただ観察してるだけでいい。
そこで得られる心の平和こそ、本当の自由であると言えます。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。