最近、ある発信を見ていて、
少し立ち止まった。

世界の幻想性を理解したうえで、
それを切り捨てていない言葉だった。

世界は構造として成り立っている。
現象は、絶対的な実体ではない。

そこまでは、もう見えている。

けれど、
だからといって
世界を「どうでもいいもの」として扱わない。
降りる方向へも、逃げない。

その距離感が、印象に残った。


構造は見るが、前に出さない

構造が見えるようになると、
人はだいたい二つに分かれる。

説明し尽くそうとするか。
切り捨ててしまうか。

でも、その言葉は
どちらにも寄っていなかった。

構造は、見ている。
けれど、それを武器にはしない。

思考は働いている。
でも、前に出てこない。

判断はある。
けれど、声が大きくない。

思考は、
主旋律ではなく
BGMとして流れている。


世界から降りない、という選択

幻想性が見えると、
関わらないという選択も
簡単に取れてしまう。

責任を軽くすることもできるし、
現象を重要視しない生き方もできる。

それでも、
その人は世界の中に立っていた。

仕事をし、
関係を持ち、
社会の中で選び続けている。

これは情熱ではなく、
根性でもなく、

構造を見た上での
静かな選択に見えた。


なぜ、その言葉が響いたのか

その言葉は
すでに自分の中で
言葉になる前にあった感覚と、
同じ場所から出ていた。