3.11 | ☀︎雲の向こうはいつも青空☀︎

☀︎雲の向こうはいつも青空☀︎

2014年に母がスキルス性胃がんで他界したのをきっかけに、翌2015年から始めたブログ。あれから年月が経ち、今は日常のことをぼちぼち綴っています。


東日本大震災から今日で丸6年。


あの時お腹の中にいた娘も今年6歳。


ほんとに色んなことがありました。


テレビも震災関連の内容が多くて、当時のことを色々思い出してます。




経験したことのない激しい揺れの中、アパートの庭に飛び出して必死に地面に這いつくばってたこと。


ぐにゃぐにゃ波打つ地面。
ガチャガチャギシギシ音を立てて左右に揺れるアパート。


やっとのことで揺れが収まって部屋に戻った時の光景。


ガラス棚が落ちて割れ、襖は外れて倒れ、粉々に砕けた食器類。


呆然としてる中、旦那が連絡をくれてホッとしたこと。


大きな余震で部屋の中は危険だから外に出てろって言われた。
外に出てみたら近所の人たちもみんな出てて軽いパニック状態だった。


とにかく両親に連絡。
すぐにつながって無事を知り一安心。


携帯のワンセグを見たら『マグニチュード8.8(後から9.0に変更)』って言ってて驚愕だった。
充電不足でその先が見れず、周りで何が起こってるのかわからないままひたすら立ち尽くす。


夕方旦那が帰って来て、私の地元が津波で浸水してるみたいだって教えてくれた。
それでもその時はほんの何センチかくらいだろうと思ってた。


状況を知ろうと再び両親に連絡したけどつながらず。




その一方で義姉一家と義妹の無事は確認できたものの、義母だけ連絡がつかなかった。


旦那と2人で探しに行ったら、義母宅の周辺が浸水してた。
車ではそれ以上進めず、私を車に残して旦那が探しに行った。


暗くなってきても旦那はなかなか戻って来なかった。
そこへ第2波の警報。けたたましいサイレン。
旦那、携帯つながらず。
消防車が通り、隊員から避難しなさいと言われそのまま乗せられて役場へ。
消防車から降りた後、旦那が心配になって戻った。


暗い中、家屋がたくさん倒壊してるところを歩いた。
田んぼの中に車が逆さまに突っ込んでクラクションが鳴りっぱなしだった。
お腹の中の娘に『ごめんね、一緒に頑張ろうね』って言ったのを覚えてる。


しばらく歩くと、途中で向こうから歩いてきた旦那と会えた。
義母は見つけられなかったとのこと。


車に戻り、引き続き義母を探した。
思い当たる避難所や病院、全部探しても見つからず。
深夜になったので一旦引き上げた。


道路は信号がつかないし周りの建物も真っ暗。
異様な雰囲気だった。


電気もガスも止まり、余震も続いてたため車の中で夜を明かした。
翌朝車のテレビで地元の状態を知った時は息をのんだ。


家も建物もほとんどなくなってた。
町中全部が水浸し。
なにこれ?うそでしょ?
こんなの現実なわけないよって思った。


実家のことが気がかりで再び両親に連絡。
なかなかつながらなかった。
やっとつながって、実家の無事を確認。
だけど祖母が行方不明。


行きたいけど行けない。
地元への道路は寸断されてたし、まず義母を見つけなきゃいけなかったから。


数日後、義母がある病院にいることがわかった。
義母の携帯が流されてみんなの連絡先がわからなくなり連絡できずにいたところ、病院で偶然に会った知人が義妹に連絡をくれたことでわかった。
旦那と2人で迎えに行った。


その少し後に実家の祖母も無事に見つかった。


そこから1ヶ月半、みなし仮設に入れるまで義母はうちに住んだ。
それはそれで色々あった。


震災から2週間くらい経って、やっと実家に行けることになった。
旦那が物資をたんまり準備してくれた。


着いた時はもう暗くなりかけてた。
地元の町は真っ暗。ほんとに真っ暗だった。
自分たちがどの道を通ってるのかわからなくなるくらいガレキの山、山、山。


まるで大きな沈没船の中にいるみたいだった。
現実を目の当たりにして言葉が出なかった。


家族はみんな避難所で無事に過ごしてた。
妹は彼氏(今の旦那)の家に避難しているようだった。
両親の顔を見て心からホッとした。


また来るよって約束して自宅に帰った。




私が住むところも電気ガス水道、ライフライン全て止まった。


うちのアパートはなぜか水道が止まらなかったから、トイレで苦労しなくて済んだのが幸いだった。


電気は4日くらいで復旧。
アパートの電気がついた瞬間、あまりの嬉しさに旦那と2人で『おおーーっ!ついたついた!!』って叫んでしまった。


ガスは復旧するまで1ヶ月以上かかった。
その間、料理はカセットコンロと義姉が持って来てくれたクッキングヒーターで。
あとはレンチンできるものとカップラーメンでしのいだ。


食べるのはそれで十分だったけど、お風呂が大変だった。


大きな鍋に水を入れて、反射式ストーブの上で沸かして浴槽へ。
それを何度も繰り返してやっと入れた。
灯油の問題もあって毎日は無理だったから数日に一度だけ。


ライフラインが普通に使えるってものすごくありがたいことなんだって身にしみた。



近くのスーパーでは店先で商品の販売。
そのたびに長蛇の列ができてた。
私たちも並んだ。
1人何点までとか決まった数だけ買えた。


ガソリンもなかなか入れられなかった。
今日はどこそこのスタンドが開くらしいよ!なんて聞けば急いで向かい、何時間も並んだあげくガセネタだったりってこともあった。


いつも普通に買い物したりガソリン入れたりできるのも本当にありがたいこと。




何をするにも不便ですごく大変だった気がするけど、避難所生活を強いられてる人たちから比べれば全然恵まれてる方だった。


私の知らないところで父や弟たちはもっともっと苦しい経験をしてた。


避難所にいながら行方不明者の捜索に加わってた父と弟は、ガレキに押しつぶされてる遺体だったり木にぶら下がってる遺体だったり、普通ではありえない状態の遺体をいくつも見たって言ってた。


その中には知ってる人の遺体もあって、その遺体を家族の元へ運んだ時のことも話してくれた。


そんなの聞いてるだけで涙が出るのに、現実に見てきた父たちは本当に辛かったと思う。




母の親友の旦那さんは未だに行方不明。


母は母で色んな思いがあったと思う。
母の兄弟親戚は足元まで迫る津波から命からがら逃げ切った。
だけど実家は全部流されてしまった。


母はあまり口に出さなかったけど、生まれ育った家が無くなったショックは大きかったと思う。


今ならもっと素直に語り合える気がするのにな。







本当に色んなことがありました。


そして被災者の悲しみや問題はまだ終わってない。
復興もまだまだ道半ば。


あの震災で家族や大切な人を亡くした人たち、家や故郷を失った人たち、行方不明者の発見を待ちわびてる人たちは、今どんな思いで生きてるんだろう。



今日は追悼の日。
14時46分には私も黙とうして手を合わせます。





※私の地元のことを少し詳しく書いてます。

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