歌舞伎座の2024年1月、まずは中村壱太郎の『京鹿子娘道成寺』を観てきた。

 

おぼこい、可愛く元気な花子

今回、「道行」がなく「鐘供養の場」(鐘入り)のみ。

実は、幕が開くまで気づかずにいた。

 

「聞いたか聞いたか…」のあと、すぐに紅白の幕が上がり、

金の烏帽子をつけ中啓を手にした花子(中村壱太郎)がいるという形。

 

壱太郎の花子は、とにかく可愛らしい。

 

動きは柔らかく、顔立ちは華やかで若々しい。

妖艶というよりは、おぼこい雰囲気の可愛らしさ。

特に鞠唄では、最初に鞠を作る(?)手つきに、なんて丁寧で可愛らしい!と感じ入る。

 

しっとりとした恋の仕草が詰まった

「〽︎恋の手習い…」、「〽︎ふっつり悋気せまいぞ…」のあたりは、これから年月を経て、どんどん味わい深くなるのだろうなぁ、という期待がある。

 

振り出し笠と、鞨鼓もとても良かった。

振り出し笠は短い踊りながら、三階から見ると三つの笠がトトと出てきた感じがして可愛らしく、印象に残る。

鞨鼓も、勢いを変化させながら鐘の下へ進んでいくあたり、引き込まれる。

 

くるくると元気で、最後まで可愛らしい花子。

そのためか、どの動きも、あとほんのコンマ数秒、見ていたいのに、またたくまに次へ流れてしまうように感じなくもない。

 

「〽︎稲荷山」の可愛いおキツネさんは、わたしの気持ちとしては「あとコンマ1秒待って!眼に焼き付けるから!」というところ。

 

振り鼓(鈴太鼓)まで行くと、

息を詰めるような勢いで加速して、鐘入りになる。

 

壱太郎の「道行」を見てみたい

見終えて、思ったことが2つ。

 

1つは、「道行」が無いと、けっこう印象が違うものだなぁという今さらな驚き。

もうひとつは、

壱太郎の花子の「道行」も観たい!ということ。

 

壱太郎の花子で「道行」を観たいのは、

この人の姿は、どこか、

甲斐庄楠音が描く女性のような、

デロリとした雰囲気があると思ったから。

 

(甲斐庄楠音の絵は、岩井志麻子の『ぼっけえ、きょうてえ』、『でえれえ、やっちもねえ』等の表紙にも使われている)

 

決して、不気味だとかグロテスクだとかマイナスの意味ではない。

 

興味深い魅力を壱太郎の花子に感じるのだ。

目にみえる可愛さ、おぼこさの、その先に何かまだもう一つ、名前のつけ難い、奥の襖があるような。

 

この演目は、清姫の怨念というドラマ性より、舞踊がメインではあるのだろうけど、ドラマ部分を担う「道行」がついたとき、壱太郎の花子はどんなふうだろう、と勝手にどきどきする。

 

「道行」の魅力

「道行」では、「〽︎科なき鐘を恨みしも」と、花子=清姫の亡霊を示して、花子にふっと、不穏な影がさす。

 

これは鐘入りの「〽︎花の姿の乱れ髪 思えば思えば恨めしやとて…」へ繋がる部分で、わたしはとても好きだ。

 

続いて、美しく可愛らしいがどこか奇妙な花子と、生臭感ただよう”聞いたか坊主”の問答。

 

「この手の内のスズメが、生きているか死んでいるか…」とは、まるで周囲を包む残酷なほど美しい春景色を映したようなやりとり。

 

壱太郎の花子、「道行」も観てみたい。

 

それにしても、

『娘道成寺』は、数々の名優が踊った大曲。

演目自体が巨大な怨念か化け物にさえ感じる。



(鑑賞のための資料の多さも、この演目の特別さを物語る…)

 

名優たちの芸が積み重なり混じり合って創り出された花子に、

女方は力を尽くして挑み続ける。

 

だからこちらも心して、

いま目の前から何を受け取れるか、を考えながら観たい、と思う。

 

熱々の人形焼って美味しいな、とか言うついでみたいに、

ここがいけないあれはいいなんて、軽々しく言うのは、やめようと思う。