こんばんは。


だいぶ放置しましたが、まだ生きてますよ。


こんなに面白くない内容のブログですが

時々チェックしてくださる方がいるみたいで、どうもありがとうございます。


しばらく何をしていたのかというと、何もしてなかったです。



日々は、ただ無駄に過ぎていくばかりで。


何にも心を動かされる事もなく。


もう、退屈すら感じなくなってきました。


そろそろ潮時なのかもしれない。



「期間限定の幸せ」も、最近はほとんど感じる事が出来ない。


また、死ぬ事ばかりを考えて過ごす日々を送っています。



だけど、じゃあなぜまだ生きているのかっていうと

未練というよりかは、ちょっと意地になってきたのかもしれない。


結局、人生のフィナーレを、満足して迎える事が出来ないからです。



もう、死のう。

って思って、好きな事をやってみたりしても。



どうしても叶えられない事は、結局叶わない。


ただ、いたずらに日々は過ぎていくばかりで


ただ ただ 消費していくだけで。



本当に欲しいものは手に入らない。



まぁ、当たり前といえば、当たり前ですけど。



本当に欲しいものが手に入るなら、死のうなんて考えないでしょうから。



最近は「絶望」というのとは、また違う感情で生きています。



からっぽ。という言葉が一番しっくりくるかもしれない。



人生を終えるにあたり、自分の人生を振り返ってみても

結局、自分には何もなかったのだと。


クダラナイ人生だったのだと。


そう、思いしらされながら、それでもまだ、こうしてこの世に留まっている。



夢も希望も無い人生なのに。



なんてくだらない。



なんてつまらない。



人生の最後に思う事が、こんな事なのか。と。




もう涙もでない。

去年の年末ぐらいから、私は「死のう」と思った。


それは、今まで自分がとても大切にしていたものを失って、2年以上たったある日の事だ。



私は音楽をやっていた。


音楽は、私にとって、すべてだった。


音楽だけが唯一、自分の生きている証であり、自分の存在理由だった。



そして、私が生きていくうえで、自分自身が一番必要としている事。


それは、自分の力で、誰かに少しでもいいから、「楽しい」とか「おもしろい」とか感じてもらえる事。

だれかに少しでも、幸せな感情を与える事が出来たら。


それが、私の望みだった。


自分自身も、音楽が大好きで、いつも一番身近にあって

たくさんのものをもらった。


それは、私のような欠陥人間でも、他の誰とも区別せず、平等に与えられ

それこそ、人生において、生きるために必要なもの

すべてをもらったと思っている。


だから、音楽は私にとって、何よりも大切なものであり

生きる理由になり得るほどの大きな存在であり


音楽はこんなにも、たくさんの人を幸せにするのだな。と、私は感動した。


そして、最初、私は、ただのいちリスナーとして、音楽を愛した。


そして、そのうち、自分もその音楽を提供する立場の人間になりたいと思うようになった。


それはもちろん、大前提として自分自身が音楽が単純に好きだから。という思いもある。

だから単純に音楽をやっていると楽しい。というのも、もちろんある。


そして、私は、私の音楽を通して、たくさんの人を幸せにしたい、と本気で考えるようになった。


私は、この世に命を授かったその瞬間から、何人かの人達を不幸にした。

何人かの人達の、幸せを奪ってまで、つくった家庭で、産まれた。


これは、直接的にいえば、私のせいではないのかもしれないが


私は、その事実を知った子供の頃から、ずっと、それを負い目に感じて生きてきた。


本当なら、自分はこの世に産まれる事すら、許されなかったのではないか。

誰かの幸せを踏みにじってまで、この世に産まれてこなくてもよかったのではないか。


自分が、今、こうして世の中にいる事すら、許される事ではない。


ずっと、そう考えて生きてきた。


だから、自分の存在意義に執拗に拘った。


常にそんな事をギリギリの精神状態で考えて生きていくほど、私は強い人間ではなかったが


ことあるごとに、思いだしては、自分はこの世に産まれてきてはいけない人間だったのではないか。

と、そう思って自分を責めた。


そんな私にとって、音楽というのは、唯一の自分の存在理由となった。


そんなだいそれた事をしなくても、私が歌う事で、全然知らない人や友人に

「ありがとう」や「楽しかったよ」なんて、ありがたい言葉をもらった。


そんな時、わたしは初めて心から、自分がこの世に産まれてきた事を、許されたのだ。と、信じる事が出来た。


誰かを、少しでも幸せにする事ができた時、私は初めて、「生きる」事を許されるのだと。

そう思った。


だから、その為に音楽をやり続けた。


そして、もっと、もっと、たくさんの人の役にたって、たくさんの人に必要とされたい。と思った。


だけど、それは極論を言えば、音楽でなくても良かったのかもしれない。


たまたま音楽が私にとって、一番身近な存在であり

暗闇から、光の導く世界へ、連れて来てくれたものだから。と、いうだけで


例えば、結婚して子供を産んで、幸せな家庭を築く。

とかいう事でも、全然良かったのだ。


だけど、私は自分に、幸せな家庭を築く、なんてだいそれた事は、今でも出来ないと思っているけれど。



そして、私は、音楽を失った。


失ったのはいろんな理由からだ。

もちろん、自分自身のせいでもある。



そこで、私はいつか、また新たにスタートしようと思っていた。


だけど、歌う事は、もはや自分にとって、何よりも苦しい事になってしまっていた。


それでもいつかはまた、以前と同じように、いや、以前よりももっと穏やかな気持ちで、歌えるようになる日が来る、と思って日々を過ごした。


現実を見つめる事から逃げ、何にも考えずに、ただ時間を消費した事もあった。



そうやって、抜け殻のようになって人生を過ごし、気づいたら、2年以上の時がたっていた。


そして、ある日、それでもまだ立ち直っていない、自分に気がついた時

私は愕然とした。



もう私が、この世に生きていてもいい理由など、どこにも無い。

という事に気がついた。



私はもう、誰かを幸せにする為に、何かをする事ができなくなってしまったのだ。



だから、私は生きる理由がなくなった。



私には、生きる理由が必要だ。



「生きる理由」どころか、「生きている事を許される理由」が必要なのだ。



その事に気づいた時、私は静かに「死」という事について、考えはじめた。


別に音楽でなくてはいけない。というわけではないのだと、書いたように

ギリギリの精神状態になった私は、それでも何か生きる理由が見つかるんじゃないかと、いろんな事を考えた。


そして、出来るだけの事は、やった。


もちろん、まだまだくじけずに、何かやっていけば、そのうちまた何か見つかるんじゃないかとも思ったが


私は、もう無理だ。と思った。


もう、これ以上、こんな状態で、生きる意味を必死に探しながら生きていくのは、苦しすぎる。



そもそも、そこまでして「生きたい」と思う理由が

私にはもう無い。


だから、私は、もう生きる理由を探すのを辞めた。


私にとって、「死」の方が自然だというのは、こんな理由からだ。



そもそも、産まれた事じたいが、ずっと許される事ではなかったのだ。


それなのに、今まで無理矢理生きてきたのだ。


もう、このへんで潮時だと考えても、おかしくないと思う。


だから、私は死ぬ。


それが自然な事なのだ。



むしろ、生まれてこなければ、良かったのかもしれない。


結局、私は自分が生まれてきた事の意味を、見つける事が出来なかったのだから。

日本には、たくさんの自殺志願者がいる。


いや、日本だけではないと思うが。



とにかく、自殺志願者がたくさんいるが、

その自殺志願者が全員自殺するのかというと、そうでもないのが現実だ。



私には、その人たちの気持ちが分かるわけではないが

私自身も「自殺志願者でありながら、自殺せずに生きている人間」のひとりである。


自殺志願者が死なない理由はさまざまなようだ。


単純に痛いのは嫌。とか

死にたいけど、死ぬ勇気がない。とか

自分がいなくなって困る人がいるので死ねない。とか


人ひとりが人生を終えるというのだから、いろいろな、しがらみはあって当然だろうが


私の場合は、死ぬまでにやりたい事をやってから死のう。というのが一番の理由だ。


どうせ、死ぬんだから今まで出来なかった事をやって死にたい。

死ぬ事はいつでも出来るのだから、焦って死に急ぐ事はない。


というのが本音だ。


とにもかくにも、生きている事が苦しくて、耐えられない。

だからとにかく、一刻も早く死にたい。


と、いうような気持ちがないわけではないが、

かといって、実際死のうとするのにあたって、多少の準備期間があったっていいんじゃないの。

と、ふと思ったら、少し気持ちが軽くなった。


残りの人生で、やりたい事をやって、心置きなく死のう。

と、思うと、むしろそれが幸せな事のように感じた。


がんじがらめの現実の中、誰もが選べるたったひとつの自由。


それが「死」なのだ。


だから、私はあっさりと死ぬ気はなくなった。


以前にも書いたように、私にとって死はごく自然なものであり

いつも近くにあるものであり、決して特別なものではない。


だから、逆にいえば、いつでも死ねるという事は

いつまででも生きれる。という事なのかもしれない。


別に死にたくなくなったわけではない。


死ぬ事を前提として、しばらく好きにやらせてくれよ。って事である。


それで満足して、人生のフィナーレを迎えられれば、それで私は幸せなのだ。


私は不幸だから死ぬわけではない。

幸せになりたいから死ぬのだ。


そして、自分の幸せが、このような期間限定でしか、得られないという事に自分自身が気づいてしまったのである。


今さら言うまでもないが、私は鬱病だ。


昔はいつか治ると思っていたのだが、何年も精神科に通って、何の進展もなく

それどころか、どんどん症状は悪くなるばかり。


今となっては、ぎりぎり社会生活を送れるか、送れないか。


という所らへんにいる。


客観的に見て、実際もっとひどい症状の人もいるので

私は、一般的にわりと軽い方だと思う。


それでも、やはり健常者のように働いたり、人と接したりする事が出来ない。


全く出来ないほどではないが、いわゆる「マトモ」に生きられない。


これは、私自身も治そうと努力というか、悪あがきはしてきたのだが

たまに、わりと順調そうに見える時もあるのだが


欝は、ある日突然やってきて、私の気力をすべて奪っていく。


結局、私は鬱から、また自分自身の心の闇から逃れる事は出来ない。


これは、まわりの環境にももちろん左右されるのだが

基本的には、自分自身の問題であり、これを解決したければ、自分が変わるしかない。


私は自分を変えようと、いろんな事をしてみた。


私の心の闇に気づかない人もたくさんいる。


そんな人達と、ある程度の距離で接する程度の事は、私でも出来る。

むしろ、「明朗快活な明るい人」というイメージの人間であるという風に、相手に思わせる程度の事も出来る。


ある程度は。


健常者でも、日々ストレスを感じたり、悩みを抱えて苦しむ事はあるだろう。

それが、人間というものだ。


だから、私は自分が特別な人間だとは思わない。


誰でも、心の闇があるはずだと思う。


けれど、その心の闇に支配され、身動きできなくなってしまうほどの人間は、やはり病気なのだと自覚せざるを得ない。


そして、結局、行き着く所は「死」なのだ。


私は、日々を消費しながら、ダラダラしながら、死にたいといつも思っている。


この苦しみから逃げだして、すべてを捨てて、何もない状態にしたい。


自分自身をこの世界から、消して。



世界は自分中心に回っているわけではない。


けれど、ひとつだけ、その世界を変える方法がある。


それが、死ぬ事なのだ。


世界から、自分を消すこと。



それが、私の望みだ。



天国や地獄など、死後の世界を信じているわけではない。



私はただ 「無」 になりたい。

人生を終える事にした。


それにあたって、ありがちだが、ブログを始める事にした。


本当にありがちだけど、どこにも行き場の無いこの思いを、どこかにぶちまけたい。

というのが、このブログの趣旨だ。


このブログの存在を、知人の誰かに教えるつもりは無い。


インターネットの世界で、どこかの誰かに読んで欲しいというよりかは

自分自身への最後のメッセージとして、このブログを残そうと思う。


はっきり言って、ここで私が何を書こうと、ほとんど誰にも見つからない。と思う。


だけど、世界へと繋がっているネットという存在は、全くの孤独では無いと、私は思う。


だから、私は最後にブログを残す事にした。



かと言って、今すぐ電車にでも飛び込んで死のう。

とか、思っているわけではない。


私にとっては、もはや「死」が非日常のものではない。


毎日、「死ぬ」ことを考えて「生きて」いる。



変な話だが、私は生きることを辞めることにしただけだ。


人生を諦めた。


今はこうやって「生きて」いるけれども、これは「生きて」いるのではなく

人生を消費しているだけだと、私は考える。


本当の意味で「生きる」ことが出来なくなった私は、「生きる」ことを辞めるのだ。


ただ、それだけのことだ。



「死ぬ」とか「自殺する」とかゆうと、ずいぶんと大袈裟なものに感じるだろうが


私にとっては、「死ぬ」ことも「生きる」ことも、たいした差はない。


どちらも、ごく自然なことだと考えている。



普通の人にとって「生きる」ことが自然ならば


私にとっては「死ぬ」ことが自然なのだ。



今こうやって、この世に存在している事すら、まさに不自然だ。



私にとって、「生」と「死」は、そんなものだ。