昔、とあるマスターから、
こんなことを言われたことがあります。
深い、深い海の中にいると想像してみて。
上を見ても、水面がどこにあるのかわからない。
下を見ても、足のつく場所はない。
手を伸ばしても、掴めるものは何もない。
どちらへ行けば海から出られるのかさえ、わからない。
そんな海の中で、
ただ、浮いていられるか。
そう言われました。
そんな状況になったら、人はおそらく、
もがきます。水面を探そうとする。
足のつく場所を探す。何か掴めるものを探す。
ここから出なければ。何とかしなければ。
このままではいけない。
それでも、何かを掴もうとせず、
どこかへ行こうとせず、何とかしようとせず、
ただ、海の中で浮いていられるか。
当時の私は、この話を、
悩みや問題が起きたとき、その中でもがくのではなく、
一歩引いて俯瞰して見ればいい。
感情や出来事に巻き込まれず、冷静に眺めればいい。
そういう意味なのだと、頭では理解していました。
そして、それで「わかった」と思っていました。
けれど、行を続けていくうちに、
「あのとき言っていたのは、こういうことだったのか」
と、まったく違うところから理解する瞬間が訪れました。
頭で「わかる」のとは違う。
身体の奥で、
「ああ……これか」とわかる。
そして気づきます。もがいていたのは、
「何とかしなければ」「答えを見つけなければ」
「ここから抜け出さなければ」
そう言い続ける、マインドだったのだと。
何も掴めない海の中で、
それでも何かを掴もうとする。
けれど、そこには何もない。
そのとき、何も掴まずにいられるか。
「マインドを手放さなければ」
そう思った瞬間、それさえも、
また掴むものになる。
マインドが動いても、
その動きに支配されずにいられるか。
わからないものを、
わからないままにしておけるか。
足のつかない場所で、
足場を作ろうとせずにいられるか。
あのときの言葉は、
頭で理解するためのものではなく、
体感し、体得していくための言葉だったのだと、
行が深まる中で少しずつわかるようになりました。
そして、不思議なことに、
「あの言葉の意味が、やっとわかった」
そう思ったあと、
さらに行を続けていると、
またあるとき、
「ああ、まだ奥があった」
と気づく。
以前の理解が間違っていたわけではありません。
そのときの自分には、
そこまでが見えていた。
同じ言葉なのに、自分が変わると、
見えてくるものが変わる。
そしてまた、
「ああ、こういうことだったのか」
と思う。
けれど、そこも終わりではない。
「悟った」「覚醒した」
そう思ったところを到達点にした瞬間、
そこにまた、自分で足場を作ってしまう。
「私はここまで来た」
という場所を掴み、そこに立とうとする。
けれど、あの海には、
もともと足場などなかった。
掴むものもなかった。
以前なら答えを出していたところで、
答えを出さずにいられる。
以前なら何かを掴んでいたところで、
掴まずにいられる。
そして、
何も掴んでいないのに、そこにいられる。
昔、とあるマスターから言われた、
たった一つの言葉。
「海の中で、浮いていられるか」
あの頃より、少し深いところで、
今もその言葉が響いています。
そしてきっと、この先には、
まだ知らない深さがある。
だから、何も掴まず。
ただ、浮いている。
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有形無形、そのあわいへ。
静寂のなか、本来の自分へ還る。
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