スーフィーの旋回|回転の中で出会った静けさと覚醒への入口 | flowbirth|Soul Core宇宙のときめきエッセンス

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魂のコアを開き、本来の自分へ。ヒーリング、瞑想、気功、チャクラ、覚醒を通して、身体と意識、宇宙とのつながりを綴ります。中国茶や香り、神社や旅など、日々の暮らしの中で出会う小さな気づきも。

以前、あるマスターから教わり、
スーフィーの旋回を何度か体験したことがあります。

スーフィズムとは、
イスラム神秘主義とも呼ばれる霊的な探求の道。

 

その中には「セマー」と呼ばれる、
身体を回転させ続ける旋回の祈りがあります。

 

片方の手を天へ、もう片方の手を大地へ。

天から受け取り、地上へと流していく。

 

そして回転を続けながら自我を超え、
神との一体性へ向かっていく。

 

そんな意味を持つといわれています。

けれど当時の私は、その深い意味を

詳しく教わっていたわけではありませんでした。

 

ただ、「回る」

ということを体験しました。

回っているのは、私なのか

片手を上げ、
その手のひらを見つめながら、

ゆっくりと回転を始めます。

 

最初は、木々も、空も、大地も、
周囲の景色すべてが視界に入ってきます。

当然、自分が回っている感覚があります。

 

ところが、

少しずつ回転を速くしていくと、
不思議なことが起こり始めました。

 

見つめている手のひらだけが、

まるで静止画のように
動かなくなっていくのです。

 

そして、「自分が回っている」

という感覚まで薄れていきました。

 

私はただ、
一本の軸のようにそこに立っている。

その私の周りを、景色のほうが
勝手に回っているように見えてくる。

そんな不思議な感覚でした。

動いているのに、静かだった

回転はさらに速くなっていきます。

それなのに、感覚としては、空を見上げながら
ただ静かに立っているようでした。

「このまま何時間でも回っていられるかもしれない」

そんな感覚さえありました。

 

身体は高速で動いている。

周囲の景色も高速で流れている。

 

けれど、その中心にいる私は、静かでした。

 

外側では大きな動きが起きているのに、

中心には、動かない場所がある。

 

そして面白いことに、回転が速くなっても、

心の中で「ゆっくり」と思うと、

回転そのものが安定していきました。

 

身体の速度と、

内側で感じている時間の速度が、

別々になったような感覚でした。

そして、大地へサレンダー

どれくらい回っていたのでしょう。

 

やがて少しずつ回転を緩め、

最後はそのまま大地へ。

おへそを大地につけるように、
うつ伏せにサレンダー。

 

すべてを明け渡す。北の大地の森の中。

森林セラピーも重なっていたからでしょうか。

 

回転によって開いていたものが、

今度は天から大地へと
すーっと吸い込まれていくようでした。

 

何かを理解したというより、

何かを手に入れたというより、

ただ、すべてが解放されていく。

身体も、思考も、自分という感覚さえも。

 

そのあとに残ったのは、

なんとも言えない
清々しさでした。

静かになる方法は、一つではない

瞑想というと、静かな場所に座り、

目を閉じ、動かずに行うものを
思い浮かべる人も多いと思います。

 

けれど、静けさへ入る方法は
それだけではありません。

 

立つこともある。

呼吸することもある。

身体を動かすこともある。

踊ることもある。

回ることもある。

自然の中を歩くこともある。

 

外側を完全に止めることで
内側の静けさに出会うこともあれば、

反対に、身体を動かし続けた先で、

動かない中心に出会うこともあります。

 

スーフィーの旋回も、

その一つなのだと思います。

覚醒への入口は、たくさんある

これまで私は、さまざまな教えや
プラクティスに触れてきました。

 

その中で感じているのは、

目覚めや気づき、覚醒へ向かう入口は、

決して一つではないということです。

 

人によって、入口は違います。

 

瞑想から入る人もいれば、

身体から入る人もいる。

呼吸から入る人もいれば、

自然から入る人もいる。

祈りや音楽、香り、人との出会い、

大切なものを失った経験から、

それまで見えていなかった世界が
突然開くこともあります。

 

だから、

「覚醒するためには、これをしなければならない」

という一つの道だけが
あるわけではないのでしょう。

 

今は特別な修行を何年もしなければ、

その入口に立てないわけでもない。

 

もしかすると私たちは、

気づいていないだけで、

日常の中で何度もその入口の前を

通っているのかもしれません。

 

覚醒への入口は、

修行の中だけにあるのではなく、

私たちが生きている、

この日常の中にもあります。

 

いづれまた、そんな

「日常にある覚醒への入口」

について書いてみたいと思います。