ニッポンを取り戻す、とは、誰から誰に何を取り戻すということでしょうか。
私の感覚から言えば、生まれも育ちもアメリカCIAである自民党から、純国産の政党で、人を支配し搾取する体制からの解放を目指す人民政党によって民意を反映する政治に取り戻すことが、正しく取り戻すことだと思っています。
自民党は、もともと、CIAが深く関与して生まれた政党であり、アメリカ帝国主義の右派、共和党の息のかかった政党です。つまり、アメリカの共和党に身も心も売り渡した売国奴の政党です。
その共和党が、いまの日本国憲法を最初から非難し続けてきました。日本の占領政策をアメリカが独占的に担当したGHQの中でも民主党系の将校たちは、第二次大戦を植民地解放とか民主的国家への転換など世界的な民主化闘争の一環になったと理解したために、頑迷な保守勢力=共和党の不興を買いました。
その共和党に追随して媚を売ってきたのが自民党にほかなりません。今の総理大臣が言っているような「戦後レジュームからの脱却」というのは、アメリカ共和党の主張のオウム返しです。
アメリカが押し付けた憲法という非難は当たりません。帝国主義憲法を廃止することなったことを受けて、国内では、天皇を国家元首として維持し続けようとした立憲君主国家を思い描く憲法草案から、アメリカ的な民主主義国家、あるいは人民民主主義とか社会主義国家を目指した草案まで、百家争鳴の憲法草案が噴出して収拾がつかなくなったほどの憲法論議が巻き起こりました。そんな中で、妥協点を探った結果が今の憲法なのであって、実は、右の勢力も左の勢力も、多くの不満を残す内容となりました。
しかし、ここからが、大事だと思います。
右翼にとっても左翼にとっても不満を残した憲法だったと思いますが、それをどのように受け止め、どのように政治活動に位置付けてきたかで、道は大きく分かれてきたからです。
アメリカ共和党の息のかかった右派勢力は、初めから改憲勢力として動き出しました。憲法制定後の最初の総選挙の時から改憲を訴えるありさまでした。これに対して、左派勢力は、憲法が掲げた基本的人権と恒久平和の理念は、日本国民の意志として堅持すべきだという護憲勢力なりました。
とくに、戦争はこりごりだという意思は、右も左もなく、圧倒的な国民的な実感だったと思います。どんなに難しい外交情勢になったとしても戦争だけはやってはいけない、というのが日本の国民的な共通感覚だったと思います。
その重大な教訓を投げ捨てるのか堅持するのかは、今の自分たちだけではなく、未来に向かっても重大な責任のある選択でしょう。
憲法の前文や9条で述べられているような平和主義は、実は、大変な勇気を求められる内容です。「目には目を、歯には歯を」という力づくの国家間の対抗ではなく、非暴力で、対話によって、国際紛争を解決する意思を表明しているのですから。相手に暴力(=戦力)を使わせない真摯な努力で国際貢献する、という意思表明は、今でも世界的な尊敬を得ていると思います。絶対に戦争をしない、戦争に加わらない決意を持っているからこその信頼と尊敬を集めることにつながっていると思います。
その日本がアメリカの言いなりになって核兵器廃絶の国際決議に棄権したり反対したりするからこそ、失望と平和に対する裏切りの不信を招いているわけです。そのおかげで、不信と軽蔑を招いているのが実態です。
自衛隊を違憲だと非難してきた共産党ですが、その存在そのものは国民的な認知を得ることになってしまったと妥協しつつ、それでも「自衛隊に誇るべきことがあるとすれば、国内でも海外でも誰ひとり殺害したり殺害される戦闘行為を行なったことがないこと」と、ギリギリの苦渋の評価を表明しています。
これに対して、今、大きな騒ぎになっているのが自民党の幹事長、石破茂のテレビ放送での発言です。自民党の憲法草案が主張する国防軍の創設の先にあるのは、その機能を現実化するための徴兵制であり、これに背く者に対しては国内最高刑罰で報いる徴兵効力の担保だというのです。まるで大日本帝国の再現です。
国防を振りかざしたがる者ども、愛国心を強要する権力どもは、まず、同胞の殺害から着手する、というのは昔も今も、どこの国でも変わらない狂気です。
なぜ、今、国防軍という主張なのか。しかも同時に、ドサクサ紛れに、集団的自衛権とやら、なのか。
明瞭です。
世界の憲兵、世界の警察であることを誇示してきたアメリカ帝国主義が、軍事費の維持が難しくなり、同盟国に応分負担を求め始めているからです。アメリカ軍に代わって兵隊を補充してくれ、戦力を投じてくれと、求められているからにほかなりません。
だからこそ、CIA製の自民党のことを、わたしは、売国奴だと言い続けている次第です。
ニッポンを取り戻す。
総理大臣が連呼するほど、そらぞらしく感じる次第です。
無邪気な正義観で「お国のためだ」と動員される自衛隊員をアメリカ兵の代理戦力として使い捨てにしてもいいのか? と、言っておきたい。
ふたりの「オレ様」の対談。彼らは、カメラに向かって、つまり、国民に向かって話しかけることは一度もなく、人を見下した発言を積み重ねるばかりだ。その彼らのコンプレックスは、欧米大国であり、白人になりたがってる惨めな姿でしかない。誰のための地方分権なのかは語らないのだが、おのずと分かりきっているのは、資本主義大国でありたいということだけだ。そのためにはカジノであぶく銭を稼ぐことも辞さない「オレ様」たちである。
あ、思い出した。誰かさんは「太陽の党」と命名したことがあったが、それに対しては「原始、女性は太陽であった」という堂々たる宣言をつき返しておこう。「風俗産業の活用を」と米帝軍人にゴマスリ進言したり、「(北朝鮮に拉致された)あの子は誰かのお妾さんになったんじゃないか」などと貧困な発想しか持てない二人に打ち返すのにふさわしいだろう。
成年後見人がいる人の選挙権の回復について、わが党の成果にしちゃった厚かましさは、笑える。実際には全会派一致の賛成であり、何もどこかの宗教政党のおかげではあるまい。大阪市長の問責騒動の際、テレビが大きく映し出していたのは、送りつけられたFAXを議場で読んでいる同党の市議の姿だったが、その文面がくっきりと映されていた。「今度こそ裏切るなよ、○○党」と。でも、彼らは最後の最後にひよった。
国民を舐めきった総理大臣の経済学によると、大企業社員のボーナスのおこぼれで地方が潤うらしい。それも、地方特産物とか観光産業だけらしい。国民諸君、順番待ちをガマンせよ、大企業あっての我々なのだから、と。そういえば、民主党を押してる連合も「会社あっての労働者」と会社にひれ伏す労使協調路線で、嬉々として雇い止めの期間工を社宅から追い出していた。
たぶん、民主党、生活の党、社民党、みどりの風は、惨敗するだろう。話題にしたいとも思わないのだから。
みんなの党、共産党は流動的だろう。頑張り次第で伸びるとしたら、もちろん、小林多喜二、山本宣治、阪口喜一郎(天皇が乗船するお召し艦・長門の乗組員だった反戦兵士で、「聳ゆるマスト」を配ったことで権力に殺された人)の党以外には伸びてほしくない。
あ、思い出した。誰かさんは「太陽の党」と命名したことがあったが、それに対しては「原始、女性は太陽であった」という堂々たる宣言をつき返しておこう。「風俗産業の活用を」と米帝軍人にゴマスリ進言したり、「(北朝鮮に拉致された)あの子は誰かのお妾さんになったんじゃないか」などと貧困な発想しか持てない二人に打ち返すのにふさわしいだろう。
成年後見人がいる人の選挙権の回復について、わが党の成果にしちゃった厚かましさは、笑える。実際には全会派一致の賛成であり、何もどこかの宗教政党のおかげではあるまい。大阪市長の問責騒動の際、テレビが大きく映し出していたのは、送りつけられたFAXを議場で読んでいる同党の市議の姿だったが、その文面がくっきりと映されていた。「今度こそ裏切るなよ、○○党」と。でも、彼らは最後の最後にひよった。
国民を舐めきった総理大臣の経済学によると、大企業社員のボーナスのおこぼれで地方が潤うらしい。それも、地方特産物とか観光産業だけらしい。国民諸君、順番待ちをガマンせよ、大企業あっての我々なのだから、と。そういえば、民主党を押してる連合も「会社あっての労働者」と会社にひれ伏す労使協調路線で、嬉々として雇い止めの期間工を社宅から追い出していた。
たぶん、民主党、生活の党、社民党、みどりの風は、惨敗するだろう。話題にしたいとも思わないのだから。
みんなの党、共産党は流動的だろう。頑張り次第で伸びるとしたら、もちろん、小林多喜二、山本宣治、阪口喜一郎(天皇が乗船するお召し艦・長門の乗組員だった反戦兵士で、「聳ゆるマスト」を配ったことで権力に殺された人)の党以外には伸びてほしくない。
ザ・ピーナッツのデュエットで大流行した歌で、ベートーベンの「エリーゼのために」が原曲です。
でも、ところで、「情熱の花」と言えば、忘れてはいけないと思う人がいます。その人の名は、ドロレス・イバルリ。「情熱の花」とは彼女のニックネームでし た。スペイン共産党の議長でした。スペイン内戦の際、ナチス・ドイツの後押しを得たフランコ独裁政権に対して「奴らを通すな」と闘いを鼓舞した闘士です。 女性参政権など、まだ、どこの国でも認められていなかった1930年代からの指導者です。フランコ軍に敗北後、ソ連に亡命し、フランコ死後に独裁体制が崩 壊して帰国を果たしました。(スペイン内戦では、アメリカの小説家だったヘミングウェイなど、諸国からの義勇兵も闘いに参加しまし た。)
彼女のファンは、今も、多いらしく、検索してみると、ブログで引用したり紹介している人たちが少なくありません。
かつて、1970年代に日本共産党が他党を圧倒するほどの女性議員を国会に押し上げ、マドンナ旋風だのマドンナ作戦だのと商業マスコミに茶化されたことが ありました。実は、他党が女性議員を増やし始めたのは、この当時からのことでした。しかしそれでも、市議会などの地方議員は、女性議員の比率も人数も共産 党が他党をはるかにしのいでいました。女性議員を重視し、育成した先駆けとなったのは、共産党にほかなりません。
共産主義者にとっては、19世紀、カール・マルクスの盟友、フリードリヒ・エンゲルスが指摘したように、人間による人間の支配が最終的 に消滅するのは女性差別が消滅するときだろう、と、人民解放の闘い(=民主化闘争、階級闘争、植民地解放闘争などなど)の古くからの 課題として意識されてきたし、それゆえに女性に敬意を抱き、数多くの女性の指導者を輩出してきたのでした。
ドロレス・イバルリは世界に知られた女性闘士の代表的なひとりなのです。
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今日は都議選投票日。一層の右傾化などと冗談きつい結果になりませんように。
6/23 8:11
軍国主義だった頃、日本列島の形は太平洋に繰り出す雄々しき騎馬の姿のようです、と「ニッポンの誇り」とされたそうです。富士山がどうして「ニッポンの誇り」なのか総理大臣に聞いてみたいものです。
6/23 8:29
都議選、開票速報が始まりました。いつも、選挙速報の番組は、なぜか、わくわく。でも、終盤にガッカリということも。
6/23 20:53
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コンフェデ杯。イタリアがキモを冷やすほどの善戦ぶりだったらしい。W杯では、もっと強くなりそう。 http://www.47news.jp/CN/201306/CN2013062001001166.html
6/20 14:05
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イギリスの王室の現代の役割の一つはきれいな英語を話すことだという。それは、日本の皇室も自覚しているようで、上品で美しく響く日本語を使いこなすことに努めている様子がよく分かる。
それに比べて、俗っぽい権力争いでのし上がった総理大臣たちは、美しい日本語など考慮の外にあるかもしれない。
かつての吉田茂首相による国会審議中の「ばかやろー」という一喝で総選挙になってしまったバカヤロー解散は、後世の我々からしてみれば無邪気で楽しい事件だったとさえ思えるが、彼ほど傍若無人な総理大臣もいなかっただろう。以後の首相たちは、少なくとも国会審議の言葉遣いでは、務めて上品に振る舞う努力をしてきたと思う。なぜなら、審議の駆け引きの上では言質を取られないことこそが使命だったのだから。
とはいっても、その首相の国会答弁も、段々と様変わりしてきた。
誰よりもそんな印象を抱いたのは民主党の野田だった。彼はとうとう、正しいとは言われない日本語を国会演説や答弁に使うようになった最初の総理大臣だったかもしれない。そんな印象を最も強く抱いたのは「やらさしてください」だった。 「やらさしてください」とか「言わさしてください」など、「~さして」という言葉遣いは日本語の乱れの典型例の一つではないだろうか。「やらさしてください」は「やらせてください」、「言わさしてください」は「言わせてください」のほうが耳触りもいいと思うが、それ以前に「やらせる」という言葉自体が品のない言葉だと感じたのは私だけだろうか。それに「~さして」だって「~させて」の方が日本語的に普通ではないだろうか。・・・と、感じたのだった。
さて、正しい日本語というのがあるのか、というと、実は、わたし自身は、そんなものはないと思っている。言葉の正しさなど、もともと存在せず、言葉というものは時代とともに変わっていくものだと思っている。そんな中で品位を感じるかどうか、というのは、文章にした時に読みやすいかどうか、内容が誤解されにくい論理性を保っているか、という二つの点に集約されると思っている。言葉へのこだわりとは、その程度のものである。
この点で、今の総理大臣の安倍ちゃんは、美しいニッポンが大好きらしいけれど、彼の日本語って美しい日本語だと感じるだろうか。私にとって耳障りなのは「~であるところの・・・」など、まるで高校の時の英語の授業のような、全然こなれてない日本語が乱発されることだ。英語などの欧米言語の関係詞を日本語に翻訳する際、「~であるところの」と表現するほど稚拙な使い方は、高校一年生や二年生ならいざ知らず、あまりに無様ではないだろうか。というか、日本語を「~であるところの」的な関係代名詞的用法に貶めることほど売国的なこともあるまい。
(ちなみに、あの舌ったらずなカツゼツも気に入らない。ああいう舌ったらずぶりは、生まれ育ちに関係しているらしく、要するに、オボッチャマ的な特徴なのだと、私などは、解釈している。)
さて、ニッポンの右翼諸君。安倍総理は、美しいニッポンの代表にふさわしいのか否か、聞いてみたいものだね。あ、そうそう、あのバカ殿・橋下は、言葉遣いの問題で、いまや風前の灯となり果ててるね。
それに比べて、俗っぽい権力争いでのし上がった総理大臣たちは、美しい日本語など考慮の外にあるかもしれない。
かつての吉田茂首相による国会審議中の「ばかやろー」という一喝で総選挙になってしまったバカヤロー解散は、後世の我々からしてみれば無邪気で楽しい事件だったとさえ思えるが、彼ほど傍若無人な総理大臣もいなかっただろう。以後の首相たちは、少なくとも国会審議の言葉遣いでは、務めて上品に振る舞う努力をしてきたと思う。なぜなら、審議の駆け引きの上では言質を取られないことこそが使命だったのだから。
とはいっても、その首相の国会答弁も、段々と様変わりしてきた。
誰よりもそんな印象を抱いたのは民主党の野田だった。彼はとうとう、正しいとは言われない日本語を国会演説や答弁に使うようになった最初の総理大臣だったかもしれない。そんな印象を最も強く抱いたのは「やらさしてください」だった。 「やらさしてください」とか「言わさしてください」など、「~さして」という言葉遣いは日本語の乱れの典型例の一つではないだろうか。「やらさしてください」は「やらせてください」、「言わさしてください」は「言わせてください」のほうが耳触りもいいと思うが、それ以前に「やらせる」という言葉自体が品のない言葉だと感じたのは私だけだろうか。それに「~さして」だって「~させて」の方が日本語的に普通ではないだろうか。・・・と、感じたのだった。
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この点で、今の総理大臣の安倍ちゃんは、美しいニッポンが大好きらしいけれど、彼の日本語って美しい日本語だと感じるだろうか。私にとって耳障りなのは「~であるところの・・・」など、まるで高校の時の英語の授業のような、全然こなれてない日本語が乱発されることだ。英語などの欧米言語の関係詞を日本語に翻訳する際、「~であるところの」と表現するほど稚拙な使い方は、高校一年生や二年生ならいざ知らず、あまりに無様ではないだろうか。というか、日本語を「~であるところの」的な関係代名詞的用法に貶めることほど売国的なこともあるまい。
(ちなみに、あの舌ったらずなカツゼツも気に入らない。ああいう舌ったらずぶりは、生まれ育ちに関係しているらしく、要するに、オボッチャマ的な特徴なのだと、私などは、解釈している。)
さて、ニッポンの右翼諸君。安倍総理は、美しいニッポンの代表にふさわしいのか否か、聞いてみたいものだね。あ、そうそう、あのバカ殿・橋下は、言葉遣いの問題で、いまや風前の灯となり果ててるね。