こんにちわ
フレックスキッズのブログへ
ようこそ!
本日は
奇跡のお話です
3/11は
わたしの
3月10日と3月11日の思いを
粛々と綴らせて頂きます
3/11は私の母の命日です
東日本大震災より10年前の3/11に病気で
旅立ちました
年は違うものの
月日と母が旅立った時間と
震災(地震)の時間が
3/11 14時◯分。。
ほぼ同時刻でした
3/11東日本大震災の5ヶ月前(2010年10月)
私達夫婦は福島県福島市へ
主人の亡き妹の忘れがたみで
私達の姪っ子の
結婚式に出席しました
主人方の親戚はほとんど
福島県と当時、仙台に住んでいました
披露宴のあと
主人の兄が市内に入院していたので
御見舞いに
その病院で311の前触れ?
とも思える
震度5の地震にあいました
その日の夕方千葉に戻る
高速道路を走る車窓から
福島の海の方向を眺めながら
何故か?
ゾッと寒気が走ったのを覚えています
年が明け2011年1月
入院中だった義兄は旅立ちました
その1ヶ月と2週間後
大震災が発生しました
東京にすんでいた頃
主人は腸の大病をして
生死をさまよい
救急病院に入院しました
入院日と退院日は一生忘れません
なぜなら
入院日は夫の母の命日2/8
退院日は私の母の命日3/11
だからです
主人の腸は破裂して
激しい痛みと40度以上の高熱が
一ヶ月続き
一切飲食はできず
骨と皮だけの身体になりました
(御腹だけはパンパンに腫れていました)
身体は手術が出来る状態ではなく
治療は点滴と強い痛み止めだけ
車の運転が出来ない私は
東京の自宅から入院先まで
片道40分の道を歩いて通い続けました
私はなりふりかまわず
ダンスレッスンの教えの仕事も
必死の笑顔でやりぬきました
身も心もボロボロになっている
そんな時にこそ
心無い人はいました
タクシーの運転手です
主人の容態が悪化して
最悪なあの日
朝、病院から電話で呼びだされ
私は駅のタクシー乗り場に
走りました
必死の形相で
私は天然パーマなので
モサモサの頭だったのでしょう
メイクもしてなかったのでしょう
タクシー乗り場手前で
タクシーを見つけたので
手をあげ
タクシーが止まる
すると運転手から
信じられない言葉が出ました
『変な女がいる』
何も知らない
初めて会ったタクシーの運転手に
私の何がわかるのか!!❓(怒)
あまりの怒りにお陰で目がさめ
冷静になれました(笑)
そしてタクシー乗り場で
別のタクシーを見つけ
病院に急ぎました
(優しいタクシー運転手さんは沢山いらっしゃいます(^o^)v)
それから主人の入院中は
頑固にも
私はタクシーは使わず
40分の道を歩いて
病院に通いました
病院までの移動は
徒歩かタクシーしかなかったから
仕方ありません
夜遅くても徒歩を選びました(笑)
今はタクシー便利に利用しています
主人は奇跡的に命をとりとめ
『病気に打ち勝つ丈夫な身体をもらった親に感謝しなさい』と
看護師さんから主人は言われました
病院では痛み止めだけでしたから
主人の自然治癒力の勝利でした
主人の父は
ニューギニア戦線で生き残り
日本に帰り熱病を発症し
やはり生死をさまよいました
[ ニューギニア戦線…
『日本軍は総勢14万人のニューギニア島上陸兵のうち、わずか1万2千名が生き残ったものの、終戦から日本に戻る間にも死亡者が続き、日本に帰還できたのは約1万人しかいませんでした。』
([ニューギニア戦線]…こちらから引用転載させて頂きました。)
↓
[死んでも帰れぬニューギニア ]
父の熱に打ち勝つDNAを主人も
受け継いだのでしょう
3月10日
東京大空襲の日
私の父はその日
もっとも激しかった
墨田区で大空襲にあいました
父の母や姉妹の女性達は
地方に疎開していました
小児麻痺の弟をリアカーに乗せ
父と直ぐ下の弟はリアカーを押し
父の父(祖父)が
道をふさぐ瓦礫をどけながら
油で燃え盛るまちを逃げ惑い
最後は川に飛び込み助かりました
川も油で燃え盛り
熱くて川に潜れば息が出来ないし
顔を出せば燃え盛る炎だし
それでも4人の父息子は生き延びました
父の兄は戦争にいき
かえらぬ人になりました
今
わたしは
生かされている
幸せを感じ
感謝しなければなりません
私が誕生できたのは
奇跡なのですから
皆様の誕生が
奇跡であるように
そして
東日本大震災
東京大空襲で
お亡くなりになった方々
主人と私を生んでくれた
両親
祖父母。。
二人のルーツの祖先の霊の
御冥福を心より御祈り致します
決して無駄に出来ない命
命ある限り
懸命に生き抜きます!!
最後まで
お読み頂きまして
まことに
ありがとうございました。
皆様の人生が
幸福に包まれますよう
心より御祈り申し上げます。