今日は日ごろ気に掛かっていることなどをひとつ。
死刑廃止論についてである。
おととし8月、「闇サイト」で知り合った男三人が、帰宅途中の女性を拉致し殺害した事件で
被告の男三人に検察が死刑を求刑したというニュース。
こうしたニュースが流れるたびに、いわゆるネット掲示板には「死刑求刑は妥当」といった意見に混じって
必ずといっていいほど「たとえどんな人間であろうとも死刑は止めるべき」といった意見が書き込まれる。
光市母子殺害事件公判においても同様の議論がなされたことは記憶に新しい。
こうした議論を見るにつけ毎回思う。それは、死刑廃止論を唱える人々の心理構造についてである。
私自身はといえば、こうした事件を目の当たりするとき、まず第一に被害者の、そして遺された人々の無念さ
に思いをはせる。そして犯人に対する限りない憎悪の念が湧くのである。
これは、この世に生を受け、少なからず親の愛情というものを経験した人間にとっては至極当然の
感情だと思っている。つまり、「無辜の人を殺したならば、自らの死をもって償うべき」といった感情である。
特にこの事件のように私利私欲のために大の男三人が、何の落ち度も無い一人の女性を、命乞いをしている
にもかかわらずハンマーで何度も殴って死に至らしめるといった鬼畜のごとき所業については、微塵も事情を
酌む必要はない。
しかし死刑廃止論者なる人々は言うのである。「こうした犯人を作り出した社会構造に原因がある」
「死刑は国家による殺人だ」「人を殺したからといって何でもかんでも死刑と言うのは犯人と同じだ。
思考停止に他ならない」。はたまた「人々は互いに赦しあうことが出来る」と。
彼らの意見を聞くにつれ、スノッブな、鼻持ちならない人物像が思い浮かぶ。
または、いかにも自分が「狂った民衆の中で唯一正気を保ったマイノリティ」といった歪んだ自己顕示欲をもった
人物像とでも言うべきか。いずれにしてもそこにあるのは「どうせ愚民には自分の崇高な考えは理解できないに
違いない」といった上からの目線であろう。
それとも、カビ臭いメサイアコンプレックスに支配された哀れな人物なのか。
彼らは「不幸な人物を助けるような立場にある幸せな自分」を錯覚したいがために、死刑囚をそのターゲットに
選んでいるだけのようにも思われるからだ。
いずれにしろ彼らに共通するのは、その事件の被害者や遺族に対する配慮の欠如である。
中には、被害者の母親が署名を集めて犯人の極刑を求めたことに対して「狂っている」とか「粘着質だ」などと
遺族を愚弄するような発言すらあった。
彼らの身勝手さを思うとき、自分の子供を自ら傷つけてまで病院に行き、「看病に明け暮れる健気で
可哀想な親」を演じるという「代理ミュンヒハウゼン症候群」を思い出す。
自分が幸福感を得るためならば自分以外の人間はどうなっても良いというような、人間の精神構造の暗部が
表出した人間。
言ってみれば、彼らは殺人を犯すような凶悪犯と紙一重の存在なのだ。それが死刑廃止論者の正体である。
彼らに言いたい。今すぐガザ地区や民族間抗争が絶えないアフリカの紛争地帯に行って、その被害者の
面前でお得意の博愛精神を説いて来い、と。
死刑廃止論についてである。
おととし8月、「闇サイト」で知り合った男三人が、帰宅途中の女性を拉致し殺害した事件で
被告の男三人に検察が死刑を求刑したというニュース。
こうしたニュースが流れるたびに、いわゆるネット掲示板には「死刑求刑は妥当」といった意見に混じって
必ずといっていいほど「たとえどんな人間であろうとも死刑は止めるべき」といった意見が書き込まれる。
光市母子殺害事件公判においても同様の議論がなされたことは記憶に新しい。
こうした議論を見るにつけ毎回思う。それは、死刑廃止論を唱える人々の心理構造についてである。
私自身はといえば、こうした事件を目の当たりするとき、まず第一に被害者の、そして遺された人々の無念さ
に思いをはせる。そして犯人に対する限りない憎悪の念が湧くのである。
これは、この世に生を受け、少なからず親の愛情というものを経験した人間にとっては至極当然の
感情だと思っている。つまり、「無辜の人を殺したならば、自らの死をもって償うべき」といった感情である。
特にこの事件のように私利私欲のために大の男三人が、何の落ち度も無い一人の女性を、命乞いをしている
にもかかわらずハンマーで何度も殴って死に至らしめるといった鬼畜のごとき所業については、微塵も事情を
酌む必要はない。
しかし死刑廃止論者なる人々は言うのである。「こうした犯人を作り出した社会構造に原因がある」
「死刑は国家による殺人だ」「人を殺したからといって何でもかんでも死刑と言うのは犯人と同じだ。
思考停止に他ならない」。はたまた「人々は互いに赦しあうことが出来る」と。
彼らの意見を聞くにつれ、スノッブな、鼻持ちならない人物像が思い浮かぶ。
または、いかにも自分が「狂った民衆の中で唯一正気を保ったマイノリティ」といった歪んだ自己顕示欲をもった
人物像とでも言うべきか。いずれにしてもそこにあるのは「どうせ愚民には自分の崇高な考えは理解できないに
違いない」といった上からの目線であろう。
それとも、カビ臭いメサイアコンプレックスに支配された哀れな人物なのか。
彼らは「不幸な人物を助けるような立場にある幸せな自分」を錯覚したいがために、死刑囚をそのターゲットに
選んでいるだけのようにも思われるからだ。
いずれにしろ彼らに共通するのは、その事件の被害者や遺族に対する配慮の欠如である。
中には、被害者の母親が署名を集めて犯人の極刑を求めたことに対して「狂っている」とか「粘着質だ」などと
遺族を愚弄するような発言すらあった。
彼らの身勝手さを思うとき、自分の子供を自ら傷つけてまで病院に行き、「看病に明け暮れる健気で
可哀想な親」を演じるという「代理ミュンヒハウゼン症候群」を思い出す。
自分が幸福感を得るためならば自分以外の人間はどうなっても良いというような、人間の精神構造の暗部が
表出した人間。
言ってみれば、彼らは殺人を犯すような凶悪犯と紙一重の存在なのだ。それが死刑廃止論者の正体である。
彼らに言いたい。今すぐガザ地区や民族間抗争が絶えないアフリカの紛争地帯に行って、その被害者の
面前でお得意の博愛精神を説いて来い、と。