2008年の夏は暑かった。


今年の異常気象までとは言わないが


夏バテなのか、具合が悪いのかわからなかった。


都会の高校に入ったばかりの息子が毎朝、楽器練習室を使うために早出するので、


同居して朝4時に起きて朝ご飯とお弁当を作っていた。


それから事務パートに出た。


帰っても心の内を話す人はいなかった。



8月に入り、


手足に力が入らず、とにかく疲れきって


食欲もなく思考もまとまらず



開業医の内科でにんにく注射を打ったりしたが


異変に気付き、近所の眼科女医に行き


「すぐに…なるべく早く、大きい病院に行ったほうがいいですよ…(心配そうに)」


と言われてもなお


息子のご飯を作らなきゃ…と家に帰ったのを覚えている。


おかしいかな?仕方ないでしょ、


命がけだったんだよ、その時の私は。




そしてその時はきた



その時は夕ご飯のあとだった。


今まで味わったことのない右眼の激痛と共に

ピンク色の絵の具が上から下に突然流れ込み(目の中でそれが起こっている)、



次は秒単位で真っ白い煙で充満したようになり(右眼だけが)


あ…こわい!…


と思って洗面所に行ったら


既に右眼は完全に真っ白い視界になっていた。


怖くて、その後どうしたのか


自分でもあまり記憶がない。




そのあとだろう…都会の大学病院で、


「あんた!なんでもっと早く来ないの!失明するよ!!」

と怖いジジイ医師から怒鳴られ


泣きたい気持ちを強く抑えて


最終的に、別の、とある大学病院で


「視神経脊髄炎です。

入院して治療しましょう」となった。


そして


若くやる気マンマンだが、配慮がまだできてない良心的な男性医師の元、


検査や治療を開始した。



パルス療法(点滴)を


1クールめ、ほんの少し見えてきた


2クールめ、う〜ん、変化に乏しい


3クールめも頼んだが、変化なし

(クール=週4回)



その頃には動悸、頻脈、急性の骨粗鬆症により骨がボロボロ砕けそうな痛みなどに悩まされ

関節の激痛、

首から肩へのリンパが激痛(悪いけど誰も助けてくれない)




ど真ん中が見えない恐怖から、


4クールめも頼んだが…悲しいことに変化なしだった。


その大学病院では検査できない項目があるとのことで、

抗体を東北大学病院に送った所


見事、アクアポリン抗体陽性!!という


結果に終わった。


あれから17年目になる


再発抗体を持つ難病という肩書きを持って、

大きな再発無しでここまできた。




私は無理をしたんだ。


明らかに、自分で自分を病気に追いやったんだ。


いろんな意見の人がいるだろうが、


私はそう思っている。


逃げ出したいほど苦しい毎日だった。


私は頑張っていたんだ……




難病のブログに興味があって読んでるそこのあなた、



どうぞ、無理はなさらずにね。







2008.9.4難病指定


2024.9.4 至る




私の記録