明治東京恋伽 めいこい
芽衣ちゃんと春草さんのkissにからめた短いお話いくつか。
満月まであと幾らか…幾望の月の頃
本編とはあってません。
***【幾望が満ちいく】***
屋敷の2階の日当たりのいい角部屋。
西洋風の重厚な木の扉に額をつけてため息を落とした。
何度か扉をノックしても、芽衣は返事をしてくれなかった。
***
何度目かにコンコンと正確なリズムで扉が叩かれる。
廊下にいるのが誰かはわかっている。
私を心配して来てくれた鴎外さんだとしたら、自称 紳士のわりに強引なあの人は1度目のノックの後に扉を開いていたことだろう。
コンコン
またノックの音。
扉から一番遠い部屋の隅にいても聞こえる。
さっきから、こんな感じで間を置いて叩かれる扉の音を耳をそばだてて聞いていた。
だけど、どうしてもそのノックに応える気にはなれなかった。
ベッドに潜って頭から布団を被ると、やっと薄暗い場所に一人になることができた。
鴎外さんと春草さんが言い争う声が、いつものじゃれ合いとは違うようで、心配になって玄関をのぞくと、鴎外さんを険しい顔で見据えている春草さんが見えた。
いつも冷静な彼らしくない様子に声をかけられないでいると、話の流れまではわからなかったけれど、春草さんは私が鴎外さんを好きだと思っているという話になっている。
それに驚いたときには、春草さんの口から信じられない言葉が転がり出ていた。
『………彼女を渡したくありません』
さっきからそのフレーズが壊れたみたいに頭の中でリフレインしている。
『俺は…、……全部を尽くしてもいい』
耳の奥に、春草さんの強い声がこびりついて離れない。
春草さんがサンルームで絵を描いているのを見ていた時の出来事。あれは明らかに春草さんの悪戯だったと思う。
リビングで眠っていたときの事故は、事故だってわかってる。
そのあと、眠ってしまった私を運んでくれたとき。あのときの春草さんは、したかったからキスをしたと言った。
それを言葉の通りに受け取っていいのか、それとも、何かに苛立った様子だった春草さんの私への意地悪だったのか、私には判断できなくて、このところの私はずっと迷っていた。
春草さんの気持ちがわからなくて。
そうして、それに振り回される自分に。
もうずっと、頭は爆発寸前だった。
『俺の気持ちは聞いてたんでしょ?』
(だけど、全然わかんない)
「春草さんのへんくつ。あまのじゃく。れいけつかん。わからずや。ばかっ」
意味も考えず思いつく悪態をつく。
「どっちなの」
わからないけど、だけど…春草さんの気持ちはわからないまま。自分の気持ちはわかってしまった。
わからないフリをしていたけど…私は春草さんが気になって仕方ないのだ。
キスされたときから…その前から?
春草さんの行動に振り回されて、心まで奪われていた。
いつのまにか、様子を見て距離を置くことも出来なくなっていた。
近づいて、一緒にいて、言葉を交わして、触れたくてしかたない。
「でも…………好き。かもしれない」
暗い布団の中で目を閉じたら、春草さんの顔が浮かんでくる。
フッとかすかに笑う顔。
呆れて冷たいようで、心配してくれてる視線。
真剣に絵を描く後ろ姿。
何度も何度も思い出す。
布団の中は息苦しくて、音も遮断されて…連日思い悩んで寝不足の瞼は重みを増して、もう持ち上げることもできなくて、そうして私はいつしか眠りに落ちていった。
***
ドンっと、午砲の音で目が冷めた。
(ねちゃってた…)
目を冷ますと、このところの睡眠不足が少し解消されていた。
体は少し軽くなったけれど、自室から出る気分になれなくって、ベッドの上で膝を抱えて身動きできずにしばらくそうしていると、
コンコン
また扉の叩かれる音がする。
(もしかして、あれからずっと?)
焦って耳を澄ますけれど、その後扉の叩かれる音は響いてこなかった。
5分ほどたって、そっと扉を薄く開けて廊下から春草さんの部屋や階段のある方を見ても人の気配はなかった。
(気のせい?)
そう思って扉にかけていた手を緩めた瞬間、外側から扉を引かれて、私の手から扉が離れていく。
「っあ」
勝手に開いた扉を見ると、それを引っ張った春草さんと目があった。
「…………っ」
「…………入っていい?」
訊ねながら、春草さんの体はすでに半分以上が中に入ってしまっている。
「あのっ」
「扉、開けておくから」
春草さんは強引にしながらも、公正であろうとするように、扉を半分開けたまま部屋に入って来て、入り口すぐのところで足を止めた。
「嫌だったら声をあげてもいい。助けを呼んでいいから」
私が静かに従うと、春草さんは少しだけ言いにくそうに、俊巡するように瞳を伏せがちにする。
「とにかく、ごめん」
「…………」
春草さんが何に対して謝っているのかわからなくて、私は返答できなかった。
それを察した春草さんが言葉を足してくれる。
「あの夜に事故で君に口付けてしまったこと。あのときに謝れなくて悪かったと思ってる」
「…それは、わざとじゃなかったってわかってますから、春草さんが謝ることじゃないですし。私のほうこそ、ごめんなさい…」
事故は事故だったけれど、やっぱりキスしてしまったのは事実で、自分だけがこんなに意識しているのかと思って、なんだか寂しいような複雑な気持ちを抱えていた。気にしてくれていたんだと知って、少しだけ胸のつかえがおりた。
「それから、もうひとつ。一方的に口付けしたことも。ごめん」
「………っ。それを、謝るってことは…あの口付けは………意地悪の延長の何かだったということなんですか…?」
胸が嫌な音を立てた。
掠れる声で尋ねると、春草さんは眉を寄せて私を見る。
「そうじゃないよ。あのとき言ったまま。したかったからしたんだよ。そりゃ、鴎外さんの前で無防備に眠りこけるなんて、ってイライラはしてたけど…意地悪でしたわけじゃない。でも、一方的だったから、謝っておきたくて」
いつも通りに、あまり感情を表さない春草さんの表情を読み解く事はできない。
だけど、いつになく饒舌なその言葉は照れて拗ねたみたいに聞こえた。
「さっきも聞いてたんでしょ?俺の気持ち。俺の気持ちなんかそのままだよ…俺は鴎外さんに嫉妬してたんだ。だから、君の気持ちも読み違えた」
(嫉妬…そのままの気持ち…だとしたら、春草さんは………)
その気持ち、理由が何なのか、期待に胸の奥が甘くときめく。
ただ、きっと恋愛関係に疎かっただろう私には、その期待をカタチにすることができなくて、確信を持てなかった。
「………」
「………」
二人の間に少しだけ沈黙が落ちる。
先に口を開いたのは春草さんだった。
「あのさ、君は俺に気があるってことでいいんだよね?」
「えっ…」
これは君の好物なの?って聞くくらいの調子でズバリと言われた言葉に、私は目を見開き、硬直した。
「違うの?俺の事が気になるって言ってたでしょ」
一瞬止まったかと思った心臓は、激しく打ち始める。
「言いました、けど…」
「あの言葉は、ちょっかいを懸けられているのが気になって嫌だとか困ってるとか言うつもり?あの状況で…?まぁ、君ならあり得るよね。だけど、だとしたら…」
耳の奥に心臓があるのかと思うくらい自分の早い鼓動が大きく聞こえる。
春草さんの腕が、緩やかな動作で私を壁際に追い込んだ。
顔の左右を両腕に阻まれて私はその狭い空間に閉じ込められた。
「それは俺や、男を煽ってるって知ったほうがいいと思うよ」
じっと見てくる澄んだ瞳の光に見惚れて、私は視線をそらすことも、ゆるく壁につかれた腕から逃げ出すこともできなくなった。
「そんなことしてると、どうなるか、いい加減に学習して欲しいとこだけど…今それをやったら、俺の歯止めが効かなさそうだから、今日は何もしないけど………」
綺麗な瞳を伏せて、春草さんは壁から手を離した。
私を囲うものはなくなったけれど、私は背を壁をつけたまま春草さんが距離をおくのを見送った。
「そういうことだから…」
振り返って、開いたままの扉のドアノブに手をかけようとする春草さんの腕を、私はとっさに捕まえた。
「待って…ください」
「………っ」
そんな風に出て行かないで。そう願って春草さんを見上げる。
私を振り向いた春草さんは、苦しそうな顔で目を眇める。
「………何?君は俺の気持ちがわからないって言うけど、俺は君の気持ちが全然わからないんだけど」
「……意地悪されるからとかそんなのだけじゃないです…気になるから。だから、だから…それは………春草さんがっ」
その先のひとつの言葉がうまく口から出てこない。
認識したばかりの気持ちは、伝えるには勇気が必要だった。
「春草さんが……っ、あっ…」
春草さんは言い淀む私の腕を掴みなおして引き寄せた。
「さっきも、言ったよね…そういうことして。気がないなんて言い訳通らないから」
春草さんの手が腰に回って、引き寄せられるまま胸に倒れこむと、春草さんの後ろで開いていた扉が閉められる。
「そう思って、良いってことだよね?」
春草さんの指が確かめるように、私の髪を一房すくって耳にするりとかける。
露わになった耳朶から輪郭をなぞって、顎の先を指の甲で少し持ち上げられた。
この次に何をされるかは、さすがにわかる。
胸が苦しい。
春草さんの指がたどった跡が、熱い。
「良いって…春草さんこそ。そういうことだからって…どういことか、はっきり教えてください」
「…あれじゃわからなかったって言うの?君って子は………本当に…」
馬鹿にしたような口調なのに、どこか甘えさせるような声がすぐ間近にあった。
私は瞬きもせずに艶を帯びた春草さんの瞳を見つめ返した。縁取る若草色の睫毛の一本一本がその魅惑的な瞳を彩って見える。
「どこまで俺を無茶苦茶に掻き乱すの…………ふっ。降参」
くすっと、突然落とされる優しい甘やかな笑みに胸が高鳴る。
「俺は君が好きだよ」
掠れるように吐息混じりの声が、私の唇を揺らした。