明治東京恋伽 めいこい

芽衣ちゃんと春草さんのkissにからめた短いお話いくつか。

満月までもう少し…十日夜の月の頃

 

***【十日夜の月が中天に】***

 

くったりと身をまかせる芽衣は思ったより重くはなかったけれど、柔らかすぎて掴みどころがなかった。そんな芽衣を横抱きにして階段を登るのは、それなりに大変だ。
すぐ眼下にある芽衣の長い睫毛が、階段を登るたびにピクピクと震えて、小さな桜色の唇が、ときどきくすぐったがるような吐息をもらす。

目を覚ましてしまってもいいのに、目を開けたら、小言の一つでも言ってやらないとと思うのに…このまま眠らせておいてやりたいとも思う。
ここ最近。もうずっと。芽衣を前にすると、矛盾する気持ちがいくつも湧いて出る。
こんなふうに人の事で思い迷うのは、とても自分らしくはなく、それにも戸惑う。

両手がふさがったまま、なんとか芽衣の部屋の扉を開けて、彼女を寝台に仰向けに置くと、むずがるように、ごろりと横向きの体制になって少し体をまるめるように縮こまらせた。

 

「んん。…ん………」

 

窓から青い光が薄く差し込んで、芽衣の片頬に落ちる明かりが、三日月のように綺麗な弧を描くのにしばらく目を奪われていると、芽衣が眉を苦しそうにひそめる。
鴎外さんの膝の上で気持ちよさそうに幸せそうに眠っていたのに、今は少し辛そうに見えた。

 

「夢の中で牛鍋を食べ過ぎたの…」

 

つい出てきたイヤミが思ったより拗ねた声だったもので、俺はため息と共に息を逃した。

 

(なんだか胸が苦しい)

 

「そんなに、鴎外さんの側は居心地いい?安心するの?」

 

(認めざる得ない)

 

誰も聞いていないだろうと素直な弱音の言葉が漏れて出る。
本当は少し聞かせたい気持ちもあったかもしれない。
あの事故の口づけの後、芽衣は自然さを装った不自然さで俺を避けている。
食事中や階下で顔を合わせると、避けはしない。だけど、緊張したようにぎこちない顔は笑顔をつくろうとしているのがありありとわかるものだ。
二人きりになるのは、あからさまに警戒している。
かといって、怒っている風でもなく…緊張したように言い訳しながら逃げていく赤くなった耳を何度見ただろう。
変に意識されている状況。

最初の頃、煩わしいとすら思っていた芽衣に避けられるようになって、清々するはずなのに、俺の中でそれがストレスになって積み重なっていた。
その理由は、もう認めざる得ない。

 

(俺は芽衣を……、……。)

 

そう、そうかもしれないと思った時には、恋は始まっているとはよくいったものだ。
そういう気持ちに慣れない俺は耐性もなく、その思いの持ちようを知らない。
すぐにでも決着をつけたくて、答えを知りたいと焦れったい気持ちが胸に溢れている。
だけど、逸る気持ちとは反対に、答えを問う勇気も、また持てない。

 

(俺は、鴎外さんに嫉妬している…)

 

俺を避ける一方で、鴎外さんのもとで安心しきった芽衣の姿。
それは、芽衣の答えを突きつけられている。ということと同じなんじゃないだろうか。

 

「鴎外さんは、やめておきなよ…君になんて手に負えないんだから」

 

眠る横顔に悔し紛れの言葉を吹き込む。
鴎外さんだって、まんざらじゃなさそうに見える。
俺がどんなに焦がれたって、及ばないんじゃなだいろうか。

答えを聞いて決着をつけて、そのときに俺はどうなるだろう。
それを想像すらできない。
諦められるのか、祝福できるのか、それとも嫉妬に身を焦がすのか。

 

「俺なら…ずっと君の側にいるよ」

 

今できる精一杯は、俺に差し出せるものを、こうやって本人の知らない間に囁く事だけだなんて…なんとも情けない。

 

「………みんな…ほんとは、いないの」
「え………?」

 

不意の芽衣の小さな返事は意外にはっきりと発せられた。

 

「みんな、見えないって。嘘つきって。私、しか…」

 

芽衣は顔の横に置いた手を力を込めてにぎる。
どうやら、またもや寝言だったらしい。
堅く閉じた目は力を込めて開く気配はない。
何の夢を見ているんだろうか。

普段は明るいこの子は、ときどき朧の刻あたりに空を見上げてこんな顔をする。
悲しそうに痛みを堪えるような顔。
今も、その時と同じような切なげな表情をしている。
芽衣の失くした記憶に関わる、彼女の闇。それを見ると、自然と俺も似たように眉をひそめてしまう。

縋ることもで出来ずに握り締められたシーツの上の手が痛々しい。

 

「ここにいるよ」
「………ぃさ、ん」
「っ………」

 

芽衣の薄青い光に艶だけ浮かせた唇が誰かを呼んだ。
聞き取れなかったけれど、きっと俺じゃない。
焦りに似た気持ちが喉元を詰まらせた。

普段はその存在を主張して、まるで俺を埋め尽くしそうなほどなのに、妙に儚く見える寝顔はどこかに消え入りそうな気がして、引き止めたかったのかもしれない。
俺は寝台の横に膝まずいてそっとその手を握った。

 

「春草だよ」

 

さっき自分が鴎外さんに言った、苦しい言い訳のことを思い出しながら、俺は芽衣に吹き込んだ。
芽衣は答えずに、俺の手を自分の顔に引き寄せるように抱き込んで、微かに安心したように微笑む。
その拍子に柔らかい唇が俺の手の甲に触れ、それを引き金に、あのときの芽衣の唇の感触が蘇った。

 

(顔…が熱い)

 

思い出すと肌が粟立つ感覚が迫り上がってきて俺は思わず手を引きそうになる。
そのせいなのか、芽衣の睫毛がゆっくり持ち上がって、濃い月の色の瞳が現れた。

 

「………しゅんそうさん?」

 

俺の名前を呟きながら、微睡むようにゆっくり瞼を上下させる。
ぼんやりとした様子は自分が何をしたのかもわかっていないのだろう、そんな芽衣とは反対に、俺は堪らない気持ちを持て余して苦しくて、それが悔しい。

 

「あんなところで寝てたら、何があっても知らないって言ったよね」

 

握っていた手に力を入れると、芽衣は初めてそれに気がついたように目を見開いた。

 

「!?」

 

慌てて体を起こそうとする芽衣を、反対の手も捕まえて寝台に仰向けに押さえつけた。
 軽く微笑みながら、驚いて体を硬直させた芽衣を見下ろすと、芽衣は狼狽える。

 

「何があっても知らないって言ったよね」

 

もう一度言い聞かせるように言って、俺は顔を近づけて、動けない芽衣の唇を掠め取った。

 

「……っ」

 

一瞬しか触れられなかったのに、その感触は甘くて、もう一度と俺を誘惑する。
もう一度、ゆっくりと重ねて離れれば、またすぐに触れたくなった。

 

「………」

 

盗み見た芽衣は青い光でもわかるほど顔を赤らめている。
少し怖がるような表情をしているのがわかって、やってしまったことに後悔を覚えた。

 

(………こんな表情がみたかったわけじゃないのに)

 

だったら、こんなことをして芽衣にどんな表情をしてほしかったのかと自分に問うけれど、芽衣からしてみれば唇を奪われて嬉しそうな顔でもしろという方がおかしな話だろう。

 

(怒るか、非難するか、怯えるか…怖がって当然だよね)

 

押さえつけていた手を離して体を起こし、寝台から離れた。

 

「どう、して…?」

 

困惑した掠れるような声。

 

「したかったからしたんだよ」

 

俺はそれだけ言うと芽衣をみられずに、部屋を後にした。