桜の季節。
恋のはじまり。

いろいろ春草さんの好きなところ楽しいところ詰め込んで書いてみました。

 

(明治東京恋伽)

 

 

***

「おはよう。春草、子リスちゃん」
「おはようございます。鴎外さん」
「おはようございます」

 

最後に部屋から降りてきた鴎外さんが食卓について、いつものように朝食がはじまった。
3人で食卓を囲むようになってしばらくたつ。
それまで鴎外さんが一方的に話しを振って、俺が何か言うより先にあっという間に会話を進めていくという食卓の景色は、芽衣がきてから少し変わった。

 

「今日は少し冷え込むね、もう春だというのに。花冷えというやつだろうか」
「そういえば、昨日、日比谷公園に行ったんです。桜が綻んでいて、もうそろそろ満開になりそうだったんですよ」
「ああ、そういえばあちらこちらで見かけるなぁ」

 

朝食の席に相応しい和やかな会話を聞きながら、ちょうど話題にのぼっている桜の絵が課題で出ていたと考えていた。
どこで描こうかといくつかの候補を頭に描く。

 

「お花見したいですね」

 

ほわんと春の陽だまりみたいな緩んだ顔で芽衣がつぶやいた。

 

「花見か、風情があっていいではないか…ぜひ連れていってやりたいところだが、あいにくと今日は仕事で一日帰ってこれないのだ。夜には夜会が…ああ、だけども。そちらを断って今日は夜桜見物にでもいこうではないか」
「いえいえ、鴎外さん!そんなことまでしていただいたら申し訳ないです」
「そうかい?僕はそれでもかまわないのだが。僕の可愛い子リスちゃんの為なのだからね遠慮は必要ないよ」
「夜会もお仕事みたいなものですよね。それを断って連れて行ってもらうなんて駄目ですよ」

 

嬉々として鴎外さんが計画を立てると、芽衣が諫めるように眉を寄せ唇を尖らせてみせる。
だけど、そんな顔全然怖くない。
現に鴎外さんは、そんな芽衣を見て口角を上げている。

 

「はははっ。まるで夫を戒める妻のようだなぁ」
「つ、妻?」
「なぁ、そう思わないか。春草」

 

俺は、鴎外さんと芽衣の夫婦姿を想像して、なんだか変な気持ちになった。

 

「………甘やかしすぎです。鴎外さん」
「いいではないか、でも、そうだな。では今夜はあきらめて近いうちに花見に行こう」
「はい」

 

芽衣は嬉しそうに頷いている。
そんな芽衣を見て、鴎外さんもますます上機嫌に溶けそうな笑みを浮かべた。

 

「それに、帰りには いろはか精養軒に寄って帰ろう。僕はおまえの美味しそうに食べる姿が見たいのだ」
「それも魅力的ですけど、せっかくですからお弁当を持って行くのもいいですね」
「うむ。それもいい………だが、それまで花がもてばいいのだが」

 

鴎外さんは、窓の外を見ながらポツリとつぶやいた。
そして、ポンと手を打つように俺に笑顔を向ける。

 

「ああ、そういえば春草。次の課題は桜の風景画だと言っていなかっただろうか」
「はい。そうです」
「それならば、ちょうどいいではないか。今日、子リスちゃんを連れて行ってやるといい」

 

(やっぱり、そうなるか)

 

「…………!?」

ちらりと、隣に座る芽衣を見れば、期待と驚きの入り混じった顔で俺を見ていた。

「………迷惑ですよね」

 

その俺の視線をどうとったのか、とたんにオロオロとしはじめる。
正直、絵を描きに行くのに雑音は邪魔だ。

 

(それに、芽衣も俺と花見に行ったって楽しくないだろ)

 

「そんなことはないだろう。ぜひ可愛い女子と麗らかな春のデエトを楽しんでくるといい」
「………っ」

 

茶化したようにデエトなんて言うから芽衣は真っ赤になって狼狽えてる。

 

「だけど、俺は課題をやりにいくから、お花見なんてしないよ。一人でいけばいいんじゃない」
「あ………はい」
「何?」

 

ちらっと俺を見上げる大きな瞳は、何か訴えてる。

 

「はっきり言いなよ」
「一人で言ってもお花見って感じしないなって………」
「ほら、春草。一緒にいってやりなさい………子リスちゃんが、この仏頂面の男と行くのが嫌だというのなら、無理にとはいわないが」
「嫌じゃないです!春草さんと一緒にいきたいです。絵を描かれる邪魔はしません」

乗せられたのか何なのか知らないけど、芽衣は力いっぱい鴎外さんに力説してる。

「ほら、春草。子リスちゃんもこう言っているではないか…」
「………はぁ」
「これは僕からの命令としようか?」
「仕方ないですね…」
「……い、いいんですか?」

 

さっきの勢いはどこへやら、芽衣はちょっと遠慮がちに俺に伺いを立てる。
鴎外さんにここまで言われて連れて行かないとは言えなかった。
きっと、この上品な笑顔の下の策略には勝てはしないのだから。
何か言えば、先をよんでさらに深くに搦めとられる。
俺は面倒くさげに溜息を吐いて、期待にキラキラ目を輝かせている芽衣を見た。

 

「行きたいんでしょ」
「はい!」
「うむ。よかった…それでは、今日は春草と子リスちゃんは花見デエトということで。この次は僕ともデエトに行くのだよ。もちろん断ることはできないよ。子リスちゃん」
「…………そうなんですか?」
「そうだとも」
「ねぇ、わかってると思うけど…もちろん今日のはデエトじゃないからね」
「はい」
「絵を描いてる時はあまり近寄らないで。だけど迷子にならないで。それから…」

 

俺の注意事項に芽衣はいちいち嬉しそうに頷いた。


 

***

 

 

墨堤の桜は、満開間近。
陽の温かさに桜は見ている前で花咲いていく。
穏やかな川の流れに反射した光に淡い色の桜は見事な情景だった。
花を見ながら散策している人の出もほどほどにある。

今日は本格的な画材を持ってきていた。
多い荷物を抱えて描きたい場所を探す俺のその後ろをトコトコと芽衣はついてくる。
途中で何度も、きゃあきゃあと桜を見て喜んでいる。

 

(まったく…はしゃぎすぎ。もう少し、この風情を楽しめばいいのに)

 

その思いは、何度か小言のようにくちをついて出て、そのたびに芽衣は「あんまりにも綺麗で楽しい」というのだ。

 

比較的人通りの少ない場所で画材を広げた。
課題というわけで、心惹かれて描き始めるわけではない。
筆をはしらせれば、それがどうなるのか、最初の想像通りにいくこともあれば、想像を超えて発展していくことだってある。
描き始めれば時を忘れて熱中していった。

ふっと影がさして上空をみあげれば、西に傾き始めた太陽が薄い雲に隠れていた。
びゅっと強い風が吹いて天気が崩れるのかもしれないと思った。そこでやっと芽衣のことを思い出した。

 

(そういえば芽衣は?)

 

辺りを見回せば邪魔にならないようにか、少し距離をとった木の下に姿を見つけた。

 

(信じられない)

 

一瞬目を疑った。
なぜなら、人の往来のある場所でこんなにも無防備に眠っているようだったから。

 

(子どもでもあるまいし)

 

そう小言のひとつもて言ってやらないと。と思って近づく。
芽衣はその気配に気づかず、本当に子どもの様な寝顔で眠っていた。

卵みたいにつるんとした頬に睫毛が陽だまりを集めて薄い影をつくっている。
今年の浅紅色の桜に抱かれる淡い世界の淡い優しい寝顔。

 

「っ………う」

 

先ほどまで桜の凛とした美しさを追い求めていたけれど、これはそれと違った、あまりにも温かい情景。

 

「なんて、なんて………すばらしいんだ」

 

画家魂に火が付いた瞬間だった。

数歩もどり、後ろ手にスケッチブックと木炭を掴んでその姿を描きとめ始めた。

 

「この陽の光が薄雲にさえぎられ、光の回り込み具合が素晴らしい。このおかげで睫毛と鼻梁が落とす影が柔らかくて、頬の柔らかさが際立っているようだ。赤い唇の………」

 

全体の姿に細部。全てが目に美しく心を掴んで離さない。
自分の手で残したい。
それを残すことが、全て自分の手に入る事のような気がする。そんな恍惚とした独占欲。

紙にそれを収める間、自分が他からどんなふうに見えるのかなんて気にしたこともなかった。
当然、周りの驚いた視線だって気付こうはずもない。

芽衣が、かすかに睫毛を震わせてゆっくり瞳を開けようとした。

 

「あぁ、瞳を開けて目覚める姿はまさにまさに春の女神………いや、この可愛らしさは桜の衣を纏いし佐保姫のごとく可憐」
「しゅ、春草、さ、ん………」

 

芽衣が戸惑ったように身じろぎするのをすかさず止めた。

 

「あぁ。動かないで。そのまま。いや、そうだな、少しあちらを、視線だけあちらにやって。そう、そうだ………」

 


***

 

 

「ふぅ」

 

紙に収まった姿に満足をしたころ、俺は一息おとして筆をおいた。
その息を吐いたのを知って、指示されるままだった芽衣は、固くしていた体からやっと力を抜いた。
そのせいで芽衣の近くにあった何かの包みがころりと転がる。

 

「ところで、それなんなの?」
「あ、桜餅です。有名なんですって。さっき、春草さんが絵を描いている間にすぐ近くのお店で売っているって教えてもらって買ってきました」
「そう」

 

芽衣が指差した方をつられて見ながら、興味なく答えた。

 

「どうして食べずに寝てたの?」
「はい、終わったら一緒に食べたいなーと思っているうちに気持ちよくて寝ちゃったみたいです」
「………」

 

えへへと笑う芽衣に、少しだけ放ったらかしにして悪かったなと思って、眉をひそめた。

 

「桜餅嫌いでしたか?」

 

芽衣は俺を責めるような素振りは一つもしない。
それどころか、嫌いだったらごめんなさいと謝るのだ。

 

「いや、もらうよ………ほっといてごめん」

「いえ!」

 

ぱっと、花見を楽しみにしていたままの笑顔を輝かせた。

 

「春草さんの絵を描いてる姿、見てるのも………あ」
「あ………」

 

二人で空を見上げる。

 

「雨…」
「雨だ」

 

手早く荷物をまとめて近くに見えた軒下まで走った。

 

「俺、俥ひろってくるから」
 

 

***

 

 

小降りの雨の中、俥を拾って戻ると、芽衣は道に背を向けて立っていた。
狭い軒下とはいえ、芽衣一人くらいなら問題ないはずのそこで、芽衣はどうしてか軒下からはみ出すように背を向けているせいで背中が濡れてしまっている。

 

「何してんの君。びしょ濡れじゃない」
「あ、いえ………」

 

申し訳なさそうにこちらを向いた芽衣の奥には俺の画材があった。

 

(っ………)

 

「もう、何やってるんだよ」

 

手ぬぐいを渡して、ガシガシと彼女の頭や肩を拭ってから俥に押し込んだ。
芽衣のおかげで大して濡れなかった画材とともに自分も乗り込んで何と言おうかと芽衣を見れば、俺を見て、いつものふにゃっと笑顔を浮かべた。

 

「私は大丈夫ですよ」
 

 

***

 

 

「お帰り春草、濡れてしまったのか」
「はい」

 

森邸に戻る頃には、雨は本格的に降り出していた。
濡れた髪や着物は乾かず、部屋に戻ってすぐに着替えてリビングに戻ると鴎外さんが読んでいた本から目を上げた。

 

「お花見デエトは楽しかったかい」
「………デエトじゃありませんてば」
「それにしてはずいぶん帰りが遅かったではないか」
「課題に時間がかかったので」

 

俺がそっけなくそう答えると、鴎外さんはつまらなさそうな顔をする。
そこに着替えを終えた芽衣がやってきた。

 

「芽衣。災難だったね。風邪などひかないように気をつけなさい」
「はい」
「やはり降り出したね、花散らしの雨にならないといいのだが」
「本当ですね。今日行っておいてよかったです」

 

芽衣が嬉しそうに微笑むと鴎外さんもにっこりと応えた。

 

「どうだった?」
「楽しかったです。あ、桜餅買ったんです。よかったら鴎外さんも一緒に食べましょう」
「やぁ、これは嬉しいね。ここの桜餅はとても美味しいから」
「お花見していた人に教えてもらったんですけど、有名なお店なんですね。たくさんの人が並んでました」
「フミさーん、お茶を頼むよ」

 

 

 

3人でお茶を飲みながら、あの時食べそこなった桜餅を口にした芽衣が目を丸くしてにんまりした。

 

「うわぁ、皮がもちもちですごくいい香り」
「うん。そうだね。この香りは桜餅茶漬けにしてもよさそうだ」
「………それは、やめておきましょう。数もないですし。そうだ、桜の塩漬けとお茶漬けで餡子なしってのはどうですか?」

 

鴎外さんの提案に少し引き攣った顔で芽衣は別案を提案してみている。

 

「そうだなあ。試してみたかったのに残念だ。なぁ、春草も食べてみたいと思わないか」
「いえ、俺はこのままで十分ですから」

 

鴎外さんは理解できないという顔で首をかしげた。

 

「あぁ。そういえば課題の方はどうだい?」
「まぁ、だいたいは………もう少し手を入れたいところですね。雨がやんで花が残っていれば………」
「行くんですか?」

 

ぱっと、芽衣がこちらを振り返った。
その顔が、朝のようにキラキラと俺を見上げる。

 

「………行きたいの?」

 

無言で芽衣はうなずいた。

 

「つまんないんじゃない? 一日、放っておいたのに」
「でも、楽しかったです。桜も綺麗だったし雨が降るまでは春らしくて気持ちよかったし。春草さんが絵を描いてるのも見られたし」
「それのどこが面白いのかわからないけど………」
「ダメですか?」

 

耳をたれた子犬みたいにしょんぼりする。

 

(よく、こんなにコロコロ顔がかわるもんだね)

「いいよ。君、今日一日邪魔にならなかったし。絵もまもってくれたし………風邪なんかひかないでよね」
「はい!」
「おや?」

 

そんなやりとりを見て、鴎外さんがニヤニヤした笑みを浮かべる。

 

「何があったというのだろう。そのところ、詳しく話してみなさい」

 

 

***

 

 

その夜、俺は課題には手を付けず、彼女の絵を描いた。


***


「コホン」

 

乾いた咳を皮切りに続いてせき込んだ。
その振動で頭がズキンズキン痛んだ。

 

「ゴホ、ゴホンっ」

 

風邪なんてひかないでよ。って言った俺が風邪をひいてしまった。
薄暗い天井をぼんやり見上げる。

頭も体も熱い。
天井がまわっているみたいに感じる。

 

(これじゃ、無理かな………昨日の絵の続きを描きたかったのに)

 


***

 


不意に意識が浮上した。
部屋に人の気配がある。
トコトコと小さな足音は鴎外さんのものじゃないし、フミさんはもっとこう足音がしない。

 

(………芽衣?)

 

まだ覚醒しきっていない頭と少しだるい体に瞼をあげるのも億劫だった。
無視を決め込んで、もう一度ぎゅっと目を閉じた。
まだ、眠い。

 

枕もとで遠慮気味な音がする。
微かな音は、なんだか人がいることを知らせて煩わしいとは思わなかった。
安心する。

 

額に柔らかいような固いような感触が触れた。

 

(な、に………?)

 

確かめようと薄っすら目を開けると、長い睫毛が俺の瞼にかすって、茶色い柔らかい髪が顔に振りそそいでいた。

 

(………)

 

驚いて目をしっかり開ければそれはすぐ芽衣の物だとわかった。
こちらが目覚めてるのを気づいていないのか、瞳を閉じた芽衣は動かない。
少し顎をもちあげれば触れてしまいそうな距離。
驚きに固まった俺も動かない。

 

「っ………何してるの」

 

擦れて上擦った声が出た。

 

「あ、」
「ケホっ………」
「大丈夫ですか?熱、まだ少しあるみたいですね。おでこ熱いです」

 

俺から離れた芽衣は、何もなかったようににっこり微笑んだ。

 

「そういうことじゃないでしょ。何してたの」
「鴎外さんに頼まれて、薬を持ってきました。まだ熱があるようだから、熱さましです。飲んでくださいね………もし何か食べられそうなら、何か作ってもらってきますけど、どうですか?」

 

その様子からは、本当に何も気にしていない様子が伝わってきた。

 

「わかんない………」
「そうですか…じゃあ、一度持ってきますから、食べられたらでいいので食べてください」

 

そういって、芽衣は部屋を出て行った。

 

「何なの………」

 

それをぼんやり見送って呟いた。

 

「本当に、わかんない…あんなことしといて、何かんがえてるの?」

 

少し顎を上げれば、あの小さな唇に触れそうだった………
思い出して、どうしてか動悸がする。
 

それも、顔が熱いのも、風邪のせいだ。熱があるからだ………きっと。

 
 
 ***
 
 春の嵐が過ぎるのとともに風邪もすっかりよくなっていた。

 

「桜、もう散ってしまいましたかね」
「まだ咲いてるとこもあるんじゃない」

 

答えながら窓から視線を移して芽衣を見た。
サンルームの大きな窓から木漏れ日が差し込み、それが芽衣の瞳に写り込んでキラキラしている。
トクンと心臓が静かに音をたてた。

 

「そんなに桜が好きなの?」
「え?好きですけど、桜がというよりお花見が好きなんです」
「やっぱり君ってどこまでいっても食い意地なんだね」

 

少し呆れがちに返すと、芽衣は心外だと眉を寄せる。

 

「春草さん、ひどっ」
「違うっていうの?」
「違いますよ。お花見ってそれだけじゃなくて…家族や仲の良い人と一緒にいくのがいいんじゃないですか。春だな〜ってすごく感じられて、幸せな気持ちになれますし。みんなが楽しそうだとワクワクするし。この日だけって感じが特別というか…」
「何を言っているのか、よくわからない」

 

頰を膨らませる芽衣を見て、リスみたいだっていうのは言い得て妙だと感心した。
つい口元が緩んだ。

 

「本当ですよ。でも、確かにあの桜餅、また食べたいな、とかは思いますけど…」
「ふうん。そんなに行きたかったんなら、約束もしたし、今日…」
『ガチャ』

 

言葉の途中で、サンルームに鴎外さんがやってきた。

 

「ああ、春草、子リスちゃんここにいたんだね。おや、子リスちゃん何を拗ねているんだい?」
「いえ、拗ねてないですよ」
「そうかい。そんなおまえに朗報だ。今日なのだけどもフミさんが急用で昼餉の準備がないのだ。なので、小リスちゃんの好きな牛鍋を食べに行こうかと思うのだが、どうだろう」

 

優雅な所作で椅子に座った鴎外さんは誘惑するように微笑む。

 

「牛鍋!?」

 

芽衣はもちろん、ピクンと肩を跳ね上げて反応した。
そんな二人を見ながら、そっと息を落とした。
先ほど言いかけた言葉は仕舞い込んで、忘れることにする。

 

「俺は、仕上げたい課題があるので、どうぞお二人で」

 

用意しておいた荷物を持ち上げて部屋を後にしようとすると、芽衣が何か言いたそうに俺を見上げてきたけれど、俺はそれをそのままに部屋を後にした。

 


***

 


玄関で靴を履いて立ち上がったところで、芽衣が追いかけてきた。

 

「春草さん」
「何?」
「今日も、行くんですよね…?」
「そうだけど」

 

どことなく居心地悪く、いつもの首巻きを深く被るように指でもてあそぶ。

 

「君は鴎外さんといろはに行くんじゃないの。帰りに花見にもいけるでしょう。鴎外さんとだったら、きっと君の言ってたみたいな花見ができるんじゃない」
「そうかもしれませんけど、このあいだ一緒に連れて行ってくれるって約束したじゃないですか……」
「鴎外さんともデエトの約束してたでしょ」
「ですけど………お邪魔じゃなかったら付いて行きたいです」

 

不安そうに目を瞬かせながら、芽衣は俺に訴えかけてくる。俺は視線を外した。

どうして彼女は、今日はこんなに頑ななんだろう。
いつもなら牛鍋に飛びつく芽衣が、牛鍋より俺についてくる理由がわからない。

 

「楽しみにしてたんです…」
「今日行くところには桜餅は売っないかもしれないよ。もちろん牛鍋も」
「はい!」

 

念を押しても、芽衣は嬉しそうに返事をするだけだった。
だけど、それを不思議に思いながら嫌だとか面倒臭いとは感じなかった。

 


***

 

 

先日の墨堤の桜は、ずいぶんと花を散らして花芯の赤を目立たせていて、俺と芽衣は少し山手の気温の低い川辺までやってきた。
ここの桜は今まさに満開だった。

 

屋敷をでるときにはああ言ったけど、前回芽衣を一日放っておくことになった反省もあって、さっき立ち寄った墨堤のそばの店でまた桜餅を買ってきて、絵を描く前にそれを食べることにした。
芽衣は終始にこにこしながら隣でそれを頬張っている。
桜餅ひとつで、どうしてそんなに嬉しそうにしているのか聞いて見ようかって思うけど、きっと花見ができたから。って言うんだろうなと思って聞かなかった。
それに、さっきから芽衣が美味しいですね、綺麗ですね。って他愛もないことを話しかけてくるので、それを聞いていればよかった。

 

暖かい陽射しの下にふわりと救い上げるような優しい風が吹いた。
その風に煽られるように花びらが宙を舞う。

 

「うわぁ」

 

芽衣はそれを見て、感嘆の息とともに立ち上がった。
花びらを捕まえようと百群の空に向けて腕を伸ばす。

 

「春草さーん!すごいです。花びら、捕まえられそう」

 

無邪気な笑顔で芽衣は花びらを追いかけた。

 

「あぁ〜。ん…んーー。以外と難しい」

 

くるくる定まらない花びらと一緒に芽衣もくるくる回っている。
そんな芽衣を見ていると、胸の内側が温かくなる。
目の前にある、その全てを抱え込みたくて、無意識に両手を伸ばしていた。

この美しい情景を描きたいと思う。
だけど、収めきれるだろうか…とも思う。
この美しさ、そこに感じる温度、自分の気持ち。
目を離せずに、やはり画家の性でキャンパスに向かった。


 

***

 


ほどなくして二つ目の課題の目処がついて顔を上げる。
花びらを追いかけた後に、近くで絵を描いているの見ていた芽衣を振り返ると…下草に花びらを落とした絨毯の上で芽衣は木に寄りかかって眠っていた。

 

「また、寝てるの…君」

 

そっと近づいたら、芽衣は幸せそうに寝むりながら微笑んだ。

 

「ねぇ。なんだって君はそんなに無防備なの」

 

真正面から芽衣の顔を覗き込んで問いかける。

 

「それに、どうして俺についてきたの」

 

伏せた睫毛の形。
瞼の薄い窪み。
頰の白さ。
寝息を立てる撫子色の唇。

ひらひら落ちてきた白に近い桜の花びらが、芽衣の頰を滑って唇に引っかかった。

 

「君の考えてること、俺には全く理解できないんだけど」
「…………」

 

それを取ってやろうと指を伸ばしかけてやめた。
指は絵の具の色で灰桜に染まっている。
だけど、花びらの色と君の唇の色が俺を誘って見えた。

触れたい衝動。

 

「こんなとこで眠る君が悪いんだよ」

 

唇と頰の狭間に落ちた桜ごと、口付けるとほのかに甘い香りを感じた。
ペロリと花びらを舐めとれば、淡い甘い味がする。

 

「ん………ん!しゅ、しゅんそ、さん?」

 

すぐそばで榛色の瞳と目が合った。

 

「いま、なにを…?」

 

芽衣は自分の頰を抑えながら、驚いた顔でわなわなと小刻みに震える。
さすがにに怒らせたか?
でも、俺が悪いんじゃない。

 

「こんなとこで寝てるからだよ、花びらがついていた」

 

ぺろっと舌を出して見せて、少し考えてそれを噛んでみた。それはほとんど無味で、さっきみたいな甘い味はしなかった。

 

「え、でもどうして…く、口で…」

 

芽衣は頰を薔薇色に染めて、恥ずかしそうに口ごもっている。

 

「…手が汚れてたから」
「だ、だ、だからって」

 

混乱した様子の彼女に俺はなんだか満足する。
画材の方に戻れば、背後から彼女のどうしてなんでという声が聞こえる。

だけど、教えてなんかあげない。

 

どうしてなんか、知らないよ。
俺だってわからないんだから。

 

「さ、帰るよ」

 

道具を片付け終え振り返ると、芽衣はさっきのまま呆然と座り込んでいた。

 

「え、もうですか?」
「そう、頭つかったらお腹がすいたの。何か甘い物食べたくなったから、つきあいなよ」
「さっきも食べたのに…それに課題は終わったんですか?」
「ちゃんと出来たよ」
「え。見たかったです」

 

手元をのぞきこんできた芽衣がハッとしたように俺を見て、心底残念そうな顔をする。
芽衣のこの顔を見ると、いつも、もう少しいじめたくなる。

 

「寝てたのは君でしょ」
「う………」
「でも、絵を描いてるのを見たいとか、絵が見たいとかどうしてなの?」
「だって、好きなんです」

 

ちょっと潤んだ瞳が俺を見上げる。
そんな台詞と仕草に不覚にも鼓動を跳ねさせられた。返り討ちにあった気分。

この子が、迂闊なことを言うのはいつもの事だってわかってる。
だけど、それに何か意味が欲しいと思うのはどうしてだろう。

 

「…やだ」
「えー。どうしてですか」
「君みたいな無神経な子には見せてあげない」
「また、寝ちゃったからですか…」

 

相変わらず、クルクル表情がかわる。
芽衣はどんな仕組みで動いているんだろう?

 

「節操なく、誰にでも好きなんていうんでしょ。誰にだって優しくして、ちょろちょろ付いていくんでしょ」
「そんな…ことはないですよ。それに、それじゃ理由になってなくないですか?」

 

意味がわからないと首をかしげれば、象牙の細い首筋がのぞく。
そんな小さな動きさえ目が追ってしまう。それに合わせて自分の心が揺り動かされる。

それが、やっぱり嫌じゃない。

 

「うん。だって、牛肉をチラつかせられたら人さらいにだって付いて行きそうじゃない」
「さすがに、そこまでは…それに、今日は鴎外さんにもついていきませんでしたよ」

 

そう言って怪訝に怒ったような困り顔で芽衣は横を向いてしまった。

 

「なんだか今日の春草さんヘン…まるで、それじゃあ嫉妬されてるみたいです」
「………っ」

 

芽衣は本気でそう言ったわけじゃないだろうけど、その言葉は俺を焦らせた。

 

「なんて、そんなことあるはずないですよね………」

 

そう冗談にしてしまおうとする芽衣。
冗談にされたくなかった。

 

さっき、混乱した様子の彼女にどうしてか満足した。
それも、これも…意識されたかったのだ。
意味が欲しかったのだ。

自分を特別にしてほしかった。

 

いつもみたいに、ほわんと笑って、行きましょうかと言う芽衣の腕を捕まえて、こちらを振り返らせた。

 

「そうかもしれないよ」
「え…」

 

振り向きざま耳元でさえずりのように囁く。

 

「ねぇ。俺だけを選びなよ。そうしたらいくらだって見せてあげるから」