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「慶喜さん」
 
私の呼びかけに応えてくれる人は、幻じゃなかった。
  
「うん、俺だよ」
 

いくつかの記憶の中にいる慶喜さんと重なって、少し違う姿。
だけど、この人が慶喜さんだってことはわかる。

 

「慶喜さん……本当に……?」
「うん……泣かせてごめん」
 
手を上に伸ばせば、その温度をかすかに指先に感じて、だけど触れるのをためらった。

 
「苦しめて、ごめん………迎えにきたよ」
 

慶喜さんは私が迷った手を握って、引き上げ、そのまま胸の中に抱き寄せた。
 

「迎え、に……?」
  
どこからが夢で、どこからが記憶で、どこからが現実で。全てわからなかった。 
ただ、包まれる温もりだけは本当の物だと感じられて、無意識に離すまいと力が入る。
 
「うん……いつ来られるのか、本当に来られるのか………分からなかったけど。やっと来ることができたよ」
「………私、あれから……慶喜さんは……あの時から……」
 
言われた意味を理解しようと考えるのに、頭は上手く働かない。
確かめる為に慶喜さんを仰ぎ見る。
端正な顔立ちはそのまま、年を重ねて、鋭さよりも穏やかさをたたえ。透き通るように綺麗で煌めくようだった瞳は、きらめきを残しつつ落ち着いた深味を増して澄んでいる。

「そうだよ。おまえと一緒に飛ばされてきたわけじゃないよ」
「……そんな………、どうして私を、帰して…傍にいたかった、のに………」
「うん。わかっている……俺はあのとき…今もだけど、とても弱くて、おまえの願いを聞いてやれなかった。ずっと一緒にいることができなくて、ごめんね」

半日前に私を帰した、儚げに、だけど譲らなかった慶喜さん。
目の前にいる慶喜さんも、私の想いには謝っても、その事実を曲げることはしないというように意思の強い声で言う。
 
「だから、私……また、帰ろうと思ったのに、壊れていて…もう、会えないって………だって、私だって…弱い。一緒にいられなかった、ら。こんなに、半日だってもたない」

だけど、納得して我慢するなんて出来なかった。

慶喜さんは、私がいなくなった後の時を経て、ここにいる。

その事実は受け入れがたい。


「ごめんね揚羽。不安にさせてごめん、約束もできなくてごめん……」
 
慶喜さんは、何度も謝りながらあやすように、ゆったりと私の背を撫でる。
 
「……待ってなかったら、どうするつもりだったんですか…私、知らなくて、何も知らなくて………………それに、他の人のものになってたかも、しれなっ、い…」

知らずに、そんなことになっていたら……そう思うと背が震えるほどこわかった。

「…うん。ごめん。だけど……それも…」
「…………?」
 
途中で口ごもった慶喜さんを見上げると少し視線をそらしていた。
 
「それは…少し邪魔をした」
「え…」
 
拗ねたような顔をして横を向く慶喜さんに、私の涙が一瞬とまった。
 
「…………、何度か。だけだけど」
「っ…………!?」
 
心当たりがなくはなかった。
 
「怒った?」
「…………どうやって。そんなこと」
「ときどき、様子を見にきて、それから、まぁ…ね?おまえの父上にも頼んだりしたし、方々いろんなツテもあって」
 

何度も持ち込まれた縁談。それは全て相手側からの申し出だった。そうして、その、どれもが、父によって、または何かの出来事によって流れていった。
 
それからーーー鮮やかに記憶が蘇る。
年に何度か尋ねてくるあの人。
 
「あの人、ケイキさん…………!?」
 
その名前を口にすれば更に記憶は蘇った。
 

「うん、俺だよ」
「っ………だ。だったら、どうして…教えてくれなかったんですか」

慶喜さんの腕の中で慶喜さんの衿を握って叫ぶように問い詰めた。
 
「だって、おまえは今日まで、俺のことを知らなかったでしょう?それに、おまえを手放して、年端もいかない女の子を側におくなんて、ね…?」
 
慶喜さんは気まずそうに言って、横をむいたまま拗ねたような顔をする。
 
「でも、何度か攫っちゃいたくはなったよ」
「そん、な…」
「…一度だけ、話したの覚えている?」
「はい」
「あのとき。俺はもう一度将軍になれって言われていたときだったんだ。まだ少女のおまえは……それでも俺を助けてくれた」
「そんな……何も…………」
 
すこし寂し気な表情に胸が切なく揺れた。
あのときの凜とした一人で佇む姿が目裏に蘇る。


「揚羽。いつだっておまえは優しかった。弱っていると、おまえに頼っちゃうのかな、俺」

慶喜さんは甘えを含んだような笑みを浮かべる。

出会ったときから変わらない慶喜さんのこんな笑み。


「揚羽。ただいま。それから………もう、いいんだ。俺。全部揚羽にあげられる」
 
この顔に私は弱い。
 
「…………いらない」
 

だけど、そんなに素直にはなれなかった。 
こんな顔して笑っていたって、おどけたようにするのだって、相手に負担をかけないようにする慶喜さんの手管だ。
その奥で自分で全てを抱え込んでいるのを知っているから…こんなふうに、都合よく現れて綺麗に全部丸め込んじゃうなんて、ずるい。
 
「えぇ……」
 
くるりと瞳を丸くする慶喜さんに、私は弱々しいまま答える。
それらを甘受する自分なんか、許せない。
 
「だって、私。知らないですもん。分け合えなかった。慶喜さんだって、そう言ったじゃないですか………全部分けてって。なのに………」
 
慶喜さんは僅かに悲しそうに、瞬きを繰り返した。
 
「長い間、慶喜さんがどうやって過ごしてきたのか、悲しいのも苦しいのも楽しいのも………私、知らない。知らないままだなんて…そんなの」
「ごめんね………」
「っ………」
 
再び、涙が湧き上がってきて、目を強く閉じるけれど、やっぱり止まらずにこぼれた。

「ふふ」

その涙が温かい感触に拭われ、落とされた嬉しそうな吐息に目を開けると、慶喜さんが隠しきれないとう感じで嬉しそうに唇を引き結んでいた。
そして、さっきとは反対の目の涙を暖かい唇で拭う。
 
「!?」
「揚羽が可愛くて…つい」
 
いいながら、口元が緩んで綺麗に弧を描く。
瞳が溶けそうな色で私を見つめ、私を見惚れさせる。
 
「ついって………」
「いらないなんて嘘つかないで」
「………嘘じゃ、…」
 
ないとは言えなくて、言葉尻が消えた。
 
「嘘だよ………俺の全部が欲しいって聞こえるよ。知らなかった間のことも全部って」

見透かされて、綺麗な瞳に覗き込まれると、堪らなくなった。
堪えられそうにない…
 
「私が、好きだったのは、あなたじゃないですもん」
 

堪えられない。
 

「揚羽。もう、そんなこと言わないの」
 
弱ったように慶喜さんの頭が私の肩にのった。
 
「今の俺のこと、全部教えてあげるから………全部あげるから、お願い、許して」
「………だけど、私が、またそれで、好きになるかなんて分からないじゃないですか」
 
憎まれ口をたたいていなければ、一緒にいられなかった知らない間のこと、その後ろめたさを全て忘れて……今すぐに私はあなたを愛しいって叫んでしまいそうだった。

それにこんな風に反抗してしまうのは……聞きたかった。
これが幸せすぎる幻じゃないって教えて欲しかった。

肩から顔を上げた慶喜さんの口角が悪戯に角度を上げる。
 
「わかるよ。だって、揚羽は最初から、いつだって俺のこと好きでしょ」

大人な慶喜さんは、自分がどんな表情をすればいいのか知っている。
眩しい笑顔は人を魅了する。
その、以前よりずっと魅力を増した姿で、確信をもっていい放たれてば、その前でこれ以上の意地をはれなかった。

「慶喜さ……ん」

苦しかったのは慶喜さんの方なのに………先に送られてしまった私なんて、何もできなかったのに。
こんな策略だって、約束された未来じゃなかった。
苦しみの中を過ごして、私の元にやってきてくれて。
 
「俺もいつも揚羽が好きだよ。揚羽のおかげで、ずっと俺は俺なりにがんばってこれたよ。幸い、こうやっておまえに会いに来ることまで出来てしまった………揚羽。俺の事全部もらってよ?」
 
ずっと欲しかったものを欲しいって言っていいって言われてる。
欲しいって言って、好きって言って、愛してると伝えて。応えてと………言われてる。
 
「……頑張ったって褒めてくれる?忘れないって信じて我慢してたんだ。ねぇ、ご褒美ちょうだいよ」
 
 切ない色を、悪戯な笑顔に隠して慶喜さんは私に囁く。
自信にあふれた言葉から、手を返すようにこんな風に甘えられたら、私の中の慶喜さんへの愛しさは溢れてしまう。


 「慶喜さんが好きです……あなたの全部が好き。あなたの全部が欲しい……っ」
「うん。俺も……揚羽の全部が欲しい」
 
慶喜さんは、ただ私だけを瞳に映して微笑んだ。




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おわり

 

 

 

 

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長々とおつきあいくださってありがとうございました。