***
あの日の揚羽の記憶が入れ替わっていく。
アゲハの母が亡くなった翌春。
牡丹桜の咲く庭で泣きつくしたあの日の記憶は、夢のように微かに存在する程度になり。変わりに別の記憶が刻まれる。
秋霖の合間の朝の庭は湿度を色濃く残し、薄く白い靄を張り夢のように朧だった。
庭の一角に自然に育った竜胆が一輪、花を雨の名残のせいで閉じていた。
青紫色の花の凛とした姿の横に立つ、すらりとした人の姿。
色素の薄い長い髪は白い靄に溶けてしまいそうだった。
アゲハはその姿に見入りながら、あれが誰なのかと首をかしげる。
家族とも屋敷の奉公人とも違う。
もう少し近くで見ようと近寄ると、その相手はアゲハを振り返った。
「………」
振り向いた人は驚くくらい端正な顔をしていて、落ち着いた琥珀色の瞳をアゲハに向けると、驚いたように瞬かせて、それから優美に口角を上げて見せた。
知らない人だと、アゲハはやはり思った。
竜胆の精かも、と思うくらいにはアゲハはまだ幼かった。
けれど、落ち着いた色味の着物を見て、はっと気付いた。
この人は、いつも頭巾で顔を隠してやってくる父の大事なお客様だと。
「あ………」
父のお客様ということもあるけれど、それまで不思議と一度も直接話したことがなかったので、不意の遭遇に話しかけてはいけない気がしたのだった。
それに、花の精かと思うほどに、その場には声をかけてはいけないような、静謐な空気が漂っていたせいもある。
アゲハが及び腰になると、その人は柔らかく人好きする笑みを浮かべた。
「………」
その笑顔に安心したアゲハは、その人に近づきたくて、けれどまだ少し戸惑う。
「おはよう。早起きだね」
「はい」
よく通る声が話しかけてくれて、アゲハはやっと許しを得たようにその人に近寄った。
「おはようございます。なんだか目が覚めちゃったから。何をしていたんですか?」
「うん。少し眠れなくて………そうしているうちに空が白んできたから庭に出てみたんだ」
なんとなくと曖昧に笑うその人は、なんだか疲れて見えた。
「しんどいんですか?」
一度安心してしまったアゲハは、物怖じせずに尋ねる。
「うん…?アゲハにはそう見える?」
名前を呼ばれて、アゲハは驚いて背の高いその人を見上げる。
「私の名前知っていらしたんですね」
「うん。知っているよ」
「お名前を伺ってもいいですか?」
どうしてか、その人はアゲハをとても優しい目で見ていた。
好奇心をそそられて、だけど名前すら知らない事に気が付いたアゲハが尋ねるとその人は、少しだけ悪戯な顔をしてみせた。
「俺は…ケイキ。忘れちゃった?」
「………ケイキさん。ごめんなさい。失礼しました」
初めて聞いたと思うのだけど、そう聞かれて、父から聞いていたのかと素直に謝る。
「ケイキさん。ケイキさん………ちゃんと覚えました。もう忘れません」
「うん」
名前を口の中で反復して、アゲハはケイキを見上げてにっこり笑う。
それにつられるようにケイキも微笑んだ。
「ケイキさん。いつも私にってお菓子を持ってきてくださってありがとうございます。ちゃんとお礼を言いたかったんです。今日、会えてよかったです」
「そう…それは、わざわざありがとう。きっとおまえはあれが好きだろうと思って」
「はい。大好きです」
「………。はは………よほど好きなんだ」
力いっぱい答えてしまって子供っぽかったかとアゲハは少し恥ずかし気に俯いた。
「はい………それで、ケイキさんは大丈夫ですか?」
「う…ん」
アゲハの問いが、ケイキがしんどそうだという話に戻って、ケイキは曖昧に頷いた。
このくらいの年の少女なら、それを大丈夫だと受け取ってくれるんではないかと考えていた。
「ここがぎゅってなってる」
だけど、子供だからこそなのか、アゲハは誤魔化されてくれず、そして答えを曖昧にすることもゆるさない。
アゲハは背伸びをしてケイキの眉間を指さした。
「あー。うん」
困ったように返事をするケイキにアゲハは神妙な顔をして見せる。
「お話。私でよければ聞きますよ。お菓子のお礼です」
「ふふっ」
妙に大人っぽい対応に、ケイキは気を抜かれたように噴き出してしまった。
「おかしかったですか?」
アゲハはケイキのその反応に少しだけ傷ついたみたいに眉を下げる。だけど主張するように真っ直ぐケイキを見つめて言葉をつづけた。
「しんどいときはお話をして聞いてもらって。悲しいときは悲しいって泣いて。楽しいときは楽しいことを………そういうことを一緒に分けられるのはいい事だって、父と母は言います。だから………」
「そっか…ありがとう」
「あ。だけど………そんな気持ちを話せる人はとっても大事な人だって………私じゃ駄目でしたね。ごめんなさい」
アゲハはそう言ってしょんぼりと肩を落とす。
「いいや……ねぇ。アゲハ、じゃあ、少し聞いてもいい?」
ケイキの問いかけに、アゲハはぴょこんと顔を上げた。
そしてケイキの顔を見て、真面目な顔でうなずく。
「ねぇ、おまえの父が、戦いに行かなければいけないかもしれないことは知っている?」
「はい」
「それを、嫌だとは思わない?」
ケイキの質問にアゲハは大きな目を泣きそうに細めて不安な様子を示した。
「お父様が戦わなくてはいけない事は、想像するのが少しむつかしいです。今までも、何度かそういって家を留守にしました………不安でした。だけど、お母様が、お父様は私達や世の中の人の為に行くんだって。みんなの為に何か出来る人は偉いんだって言います。待つのはもどかしいけど、お父様の事を信じて待ちます」
「そっか………」
アゲハの表情からは、嫌だというのが読み取れる。
言葉ではこう言いながら、正直に不安が勝っているのだろう。
「ケイキさんも行くんですか?」
「行くよ…」
ケイキは苦悶の表情を浮かべて、それから感情のない声で答えた。
「じゃあ、ケイキさんも………無事でいてくださいね」
「俺の心配もしてくれるの?」
「もちろんです」
「俺が、アゲハの父を戦わなきゃいけない場所に連れていくとしても?俺が憎くない?」
ケイキの表情は苦し気に翳る。
「………。はい」
少し考えて、アゲハははっきりと答えた。
「どうして?」
「どうして………うーん。ケイキさんだって、喜んで戦うわけじゃないですよね………とっても苦しそう。だから、どうしてかはわからないけど、憎いなんて思いませんでした。それにお父様はちゃんと自分で決めて色んな事の為に行くんんです。ケイキさんのせいじゃないと思いますよ。ケイキさんは誰かに言われて嫌で行くんですか?」
「ううん。そうじゃ…ない。うん。そうじゃないな」
ケイキは答を出したように、小さくうなずいた。
「じゃあ、俺はちょっと頑張って来るよ。アゲハやアゲハの父や、何かの役に立てるように」
眉間の力を抜いて顔を上げ、ケイキは澄んだ瞳でアゲハを見て愛しそうに微笑んだ。
薄い霧に、角度を上げた陽の光が反射して飽和する。
アゲハはその笑顔を眩しそうに見入った。
「その笑顔。とっても好き」
「…っ。ふふっ。俺も、おまえの笑顔が好きだよ」
***
あの日の揚羽の記憶が入れ替わっていく。
アゲハの母が亡くなった翌春。
牡丹桜の咲く庭で泣きつくしたあの日の記憶は、夢のように微かに存在する程度になり。変わりに別の記憶が刻まれる。
秋霖の合間の朝の庭は湿度を色濃く残し、薄く白い靄を張り夢のように朧だった。
庭の一角に自然に育った竜胆が一輪、花を雨の名残のせいで閉じていた。
青紫色の花の凛とした姿の横に立つ、すらりとした人の姿。
色素の薄い長い髪は白い靄に溶けてしまいそうだった。
アゲハはその姿に見入りながら、あれが誰なのかと首をかしげる。
家族とも屋敷の奉公人とも違う。
もう少し近くで見ようと近寄ると、その相手はアゲハを振り返った。
「………」
振り向いた人は驚くくらい端正な顔をしていて、落ち着いた琥珀色の瞳をアゲハに向けると、驚いたように瞬かせて、それから優美に口角を上げて見せた。
知らない人だと、アゲハはやはり思った。
竜胆の精かも、と思うくらいにはアゲハはまだ幼かった。
けれど、落ち着いた色味の着物を見て、はっと気付いた。
この人は、いつも頭巾で顔を隠してやってくる父の大事なお客様だと。
「あ………」
父のお客様ということもあるけれど、それまで不思議と一度も直接話したことがなかったので、不意の遭遇に話しかけてはいけない気がしたのだった。
それに、花の精かと思うほどに、その場には声をかけてはいけないような、静謐な空気が漂っていたせいもある。
アゲハが及び腰になると、その人は柔らかく人好きする笑みを浮かべた。
「………」
その笑顔に安心したアゲハは、その人に近づきたくて、けれどまだ少し戸惑う。
「おはよう。早起きだね」
「はい」
よく通る声が話しかけてくれて、アゲハはやっと許しを得たようにその人に近寄った。
「おはようございます。なんだか目が覚めちゃったから。何をしていたんですか?」
「うん。少し眠れなくて………そうしているうちに空が白んできたから庭に出てみたんだ」
なんとなくと曖昧に笑うその人は、なんだか疲れて見えた。
「しんどいんですか?」
一度安心してしまったアゲハは、物怖じせずに尋ねる。
「うん…?アゲハにはそう見える?」
名前を呼ばれて、アゲハは驚いて背の高いその人を見上げる。
「私の名前知っていらしたんですね」
「うん。知っているよ」
「お名前を伺ってもいいですか?」
どうしてか、その人はアゲハをとても優しい目で見ていた。
好奇心をそそられて、だけど名前すら知らない事に気が付いたアゲハが尋ねるとその人は、少しだけ悪戯な顔をしてみせた。
「俺は…ケイキ。忘れちゃった?」
「………ケイキさん。ごめんなさい。失礼しました」
初めて聞いたと思うのだけど、そう聞かれて、父から聞いていたのかと素直に謝る。
「ケイキさん。ケイキさん………ちゃんと覚えました。もう忘れません」
「うん」
名前を口の中で反復して、アゲハはケイキを見上げてにっこり笑う。
それにつられるようにケイキも微笑んだ。
「ケイキさん。いつも私にってお菓子を持ってきてくださってありがとうございます。ちゃんとお礼を言いたかったんです。今日、会えてよかったです」
「そう…それは、わざわざありがとう。きっとおまえはあれが好きだろうと思って」
「はい。大好きです」
「………。はは………よほど好きなんだ」
力いっぱい答えてしまって子供っぽかったかとアゲハは少し恥ずかし気に俯いた。
「はい………それで、ケイキさんは大丈夫ですか?」
「う…ん」
アゲハの問いが、ケイキがしんどそうだという話に戻って、ケイキは曖昧に頷いた。
このくらいの年の少女なら、それを大丈夫だと受け取ってくれるんではないかと考えていた。
「ここがぎゅってなってる」
だけど、子供だからこそなのか、アゲハは誤魔化されてくれず、そして答えを曖昧にすることもゆるさない。
アゲハは背伸びをしてケイキの眉間を指さした。
「あー。うん」
困ったように返事をするケイキにアゲハは神妙な顔をして見せる。
「お話。私でよければ聞きますよ。お菓子のお礼です」
「ふふっ」
妙に大人っぽい対応に、ケイキは気を抜かれたように噴き出してしまった。
「おかしかったですか?」
アゲハはケイキのその反応に少しだけ傷ついたみたいに眉を下げる。だけど主張するように真っ直ぐケイキを見つめて言葉をつづけた。
「しんどいときはお話をして聞いてもらって。悲しいときは悲しいって泣いて。楽しいときは楽しいことを………そういうことを一緒に分けられるのはいい事だって、父と母は言います。だから………」
「そっか…ありがとう」
「あ。だけど………そんな気持ちを話せる人はとっても大事な人だって………私じゃ駄目でしたね。ごめんなさい」
アゲハはそう言ってしょんぼりと肩を落とす。
「いいや……ねぇ。アゲハ、じゃあ、少し聞いてもいい?」
ケイキの問いかけに、アゲハはぴょこんと顔を上げた。
そしてケイキの顔を見て、真面目な顔でうなずく。
「ねぇ、おまえの父が、戦いに行かなければいけないかもしれないことは知っている?」
「はい」
「それを、嫌だとは思わない?」
ケイキの質問にアゲハは大きな目を泣きそうに細めて不安な様子を示した。
「お父様が戦わなくてはいけない事は、想像するのが少しむつかしいです。今までも、何度かそういって家を留守にしました………不安でした。だけど、お母様が、お父様は私達や世の中の人の為に行くんだって。みんなの為に何か出来る人は偉いんだって言います。待つのはもどかしいけど、お父様の事を信じて待ちます」
「そっか………」
アゲハの表情からは、嫌だというのが読み取れる。
言葉ではこう言いながら、正直に不安が勝っているのだろう。
「ケイキさんも行くんですか?」
「行くよ…」
ケイキは苦悶の表情を浮かべて、それから感情のない声で答えた。
「じゃあ、ケイキさんも………無事でいてくださいね」
「俺の心配もしてくれるの?」
「もちろんです」
「俺が、アゲハの父を戦わなきゃいけない場所に連れていくとしても?俺が憎くない?」
ケイキの表情は苦し気に翳る。
「………。はい」
少し考えて、アゲハははっきりと答えた。
「どうして?」
「どうして………うーん。ケイキさんだって、喜んで戦うわけじゃないですよね………とっても苦しそう。だから、どうしてかはわからないけど、憎いなんて思いませんでした。それにお父様はちゃんと自分で決めて色んな事の為に行くんんです。ケイキさんのせいじゃないと思いますよ。ケイキさんは誰かに言われて嫌で行くんですか?」
「ううん。そうじゃ…ない。うん。そうじゃないな」
ケイキは答を出したように、小さくうなずいた。
「じゃあ、俺はちょっと頑張って来るよ。アゲハやアゲハの父や、何かの役に立てるように」
眉間の力を抜いて顔を上げ、ケイキは澄んだ瞳でアゲハを見て愛しそうに微笑んだ。
薄い霧に、角度を上げた陽の光が反射して飽和する。
アゲハはその笑顔を眩しそうに見入った。
「その笑顔。とっても好き」
「…っ。ふふっ。俺も、おまえの笑顔が好きだよ」
***