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「久しぶり。だな」
 
私を呼んだ声の人————秋斉さんと私は細い人通りのない路地で向き合っていた。
 
「はい」
 
記憶のままの涼やかな立ち姿。
以前とそう変わらない姿は、不意に涙ぐみそうに懐かしい。
 
「さっきの男は、揚羽の旦那?」
「いえ…?土方さんは、お世話になっている友人です」
「他には?」
 
尋ねられてる意味がわからず、首をかしげる。
 
「他ですか?」
「ここではどうしているんだい?」
「さっきの甘味屋さんで住み込みで働かせてもらってます」
 
聞きたいことはたくさんあるのに、何から聞いていいかわからなくて、秋斉さんの質問に返事をしながら、私はじりじりと焦る気持ちがこみ上げてくる。
 
「秋斉さん。あの…来てくださってありがとうございます。来てくださったのは、どうしてか聞いてもいいですか?」
「………他はいないってことか」
「すいません…………」
 
困った様子でため息ついでに言われて、意味もなくあやまってしまった。
 
「いや。一応、聞いてみただけだから、気にしなくていい」
「…………」
「あれから…四か、五年ほどになるか…」
「はい…」
 
秋斉さんは、じっと私を見つめてしばらくすると、ふっと息をはいた。
 
「………今でも慶喜を、想っていると顔に書いてある」
「っ………」
 
秋斉さんはいつもの落ち着いた雰囲気に隠された甘い口元をうっすら微笑ませて私を追い詰めるように少し距離を詰めた。
 
「おまえはどこの誰なんだい?おまえが慶喜と距離を置いた方がいいと言って、頼まれて鎌倉まで送った。そのあと、行方知らずになって。調べたが、あの辺りにあった西門という家には、お前と同じ名前の幼い子供がいた。だけどおまえはいなかった………これってどういうことなのか。偽名だったのか。今の姿がおまえの本当の姿なのか。それとももっと別のものなのか」
 
その淡々とした話し口調には有無を言わさない雰囲気があった。
私は後ずさりしながら、すべてを打ち明ける。
 
「あの………」

 
***
 

「それを、信じろと?」
 
私は、秋斉さんに全てを告白した。
目の前には柳眉を下げる秋斉さん。
『先の世界』から来たということ、信じてもらえるだろうか?
 
「はい、信じていただけないと色々納得していただけませんよね………」
「そうだね。確かに、手元からだけではなく離別まで覚悟した理由には納得がいくけれど。帰るところもなかったというわけか」
「はい………でも、帰るところがなかったというのは少しだけ違うかもしれません。帰れる方法がなかったわけではないんです」
「だけど、帰らなかったのは、あのときにおまえが言っていたことを実行したということか…」
「そうです」
 
あの夜にした決意を誓い直すように私は頷いた。
 
「………どこまでも頑固で不器用で、お前たちはおかしなところが似てるね」
 
秋斉さんの瞳が少し優しく揺らいだ。
それから、労わるように私の頭を撫でた。
 
「それで、それは成したと?」
「…それは、まだ、少し迷っています。これでいいのかって…だけど、あのときみたいに、逃げ帰る場所しかないなんてことにはなりません」
 
私は逸る気持ちを抑えられず、秋斉さんを見上げて、催促する。
 
「それで…」
「おまえが慶喜の元から去って、あいつは前を向いてやってきていた。だけど、おまえが、別れの宴の晩に言っていた言葉。慶喜の為に傍にいられる者。それがいてくれたらと俺は思っている」
 
秋斉さんの言葉を私は必死に受け止めた。
 

慶喜さんとの別れの前夜。あの宴の終わりに秋斉さんに弱音を吐いたとき。
慶喜さんにもう一度会える可能性を残すために私は秋斉さんに最後の綱を託した。
 
私がちゃんと自分の居場所を持てて、今のように慶喜さんに頼って甘えてばかりじゃなくて、慶喜さんが全てを背負わずにすむように、最低限の自立ができたら…
そのとき、もし慶喜さんが私をまだ必要としてくれていると秋斉さんが判断したら、私のことを迎えに来てくれないかと。
すごく曖昧なお願いだったと思う。
 
あのとき、私の寄る辺は慶喜さんの気持ちだけで。
それでは、お互いを苦しめる結果になってしまった。
だからどうしても自分の居場所を持ちたかった。
 
幸い、父にも認められて、仕事を得ることもできた。
だけど、それができなかったら…もしかしたら私はどこかで野たれ死んでいたかもしれないし、それがいつにできるかはわからなかった。
だけど、どうしても最後の綱を残さなければ、私は慶喜さんに再び会うことすらできないのは簡単にわかった。
ここで働きだして三年ほどもしたら、生活はそれなりに落ち着いた。
 
だけど、その時の慶喜さんは前を向いて走っている最中だった。
その側にいたいという想いと、今戻ることができても私はまだ同じことを繰り返さないかの不安。
 
時間が経てば経つだけ、慶喜さんが私のことを想ってくれている期待は薄くなっていく。
その期待を信じきるには離れていた三年は長かった。
 
何度も秋斉さんに連絡をとろうとしては、断念して。
そうして、とうとう将軍継嗣問題に決着がついたと噂を聞いて…それからやっと、決意した。
やっぱり、私の知っている歴史のとおりに事は進んでいくのだろうと確信してからだった。
 
私は子供の頃の記憶をたどり、この少し先に十四代将軍に変わること。
それからそのもっと後に十五代将軍に慶喜さんがつくこと…その十五代将軍さまが政権返上し、天皇に政権が返上されること。
その後、世の中はさらに混乱して、戦いが起こること。
そんな大まかな歴史を思い出していた。
 
この先の慶喜さんは、また前を向いて進んでいく。
辛い道筋。
その傍にいたいと切実に願った。
 
秋斉さんに教えられていた連絡をとる方法を使ったのがつい先日。
まだ、一日と少ししか経っていない。
慶喜さんにはもう私がいらない可能性も十分にある。
その連絡を入れてからの時間は、恐ろしく長かった。
秋斉さんはここまで来てくれた。
 
まだ、必要。
もう、不要。
 
どちらの返事をもってきてくれたのかなんてわからなくて、不安だった。
 
だけど、今、秋斉さんのくれた言葉は、私を必要だと判断してくれたということ。
胸が詰まって、目が潤んでしまう。
 
嬉しさと、慶喜さんの心を思う苦しさ。
あの苦しそうに寂しい瞳が思い出されて胸に大きな楔を打ち込まれたみたいに痛んだ。
周りの人、仲間と敵と。
それらに囲まれて率いていく人の大きな大きな背負ったもの。
いまでも私を必要だと言ってくれるということは、それを忘れる一瞬もなく、ずっと立っていたということ。
 
「揚羽。それでは、おまえは…慶喜が将軍にならない事も知っていたということか」
「はい…」
 
正確には、今このときに慶喜さんは将軍にはならない。だけれど、そのことは黙っておくことにした。
 
「では、この機会を選んだのも、慶喜に必要だと思って、俺に知らせを送ったと?」
「…それだけではないです。前を向いて走ってる慶喜さんの邪魔をしたくなくて。それから………私自身の自信がなくて。この時までひきのばしてしまいました」

深い色の瞳が私を射る。

「………そうか。おまえがいなくなってから慶喜は少し強くなったよ。目的もそのための狡さも持って………その最中で戻ってくると言われたら、俺がとめたかもしれないね」
 
遠くを見るように視線を反らして、秋斉さんは少し疲れた様子を見せた。
 
「だけど、ここで一旦折られた…この先の情勢はさらに厳しい」
「はい」
「改めて、おまえが居てやってくれればと思う」
「……っ」
 
はっきりと、そう言われて体が震えた。
 
「それが…私でいいと言ってくださるんですか………秋斉さんは、あのときもですけど、今も、慶喜さんのもとに私がいることを、どうして認めてくれるんですか………」
 
言われたことが簡単には信じられなくて、私でいいのかっていうことが、やっぱり信じられない。
 
「あのとき、慶喜はおまえを欲しがった。俺はそれを叶える…そういうことだよ」
 
秋斉さんは仕方ないというように口の端に笑みを乗せてそう言った。
秋斉さんの慶喜さんへの想いが私の胸を熱くした。
 

 
***