【星合の夜】
夏の晴れた夜空に星が無数に輝いている。
はっきりと一つ一つが輝く明るい星もあれば、形をとらえることもできない小さな星もあり、小さな星は寄り集ってその光で川を描いてミルクみたいに優しくにじんでいる。
久々に訪れた京で慶喜と葵はその空を見上げていた。
色々なことがあった思い入れのある土地。
ずいぶん前のことのような気もするけれど、ひとつひとつ忘れられない出来事、思い出。
ふと、葵と出逢った頃の事を思い出す。
葵との思い出は、中でも色鮮やかな記憶だった。
初めに市中で見かけて声をかけたのも。
新選組から引き取って、藍屋に連れていったのも。
葵に俺の名を聞かれたとき……ためらったのも。
何か特別な理由があってじゃなかったと思う。
(たしかに気になる存在ではあったけど、こんなふうになるなんて、何かに導かれたのか…)
世間知らずを通り越して何も知らない風変わりな娘が、無垢で真っ白な“何か” に確かに見えた。
(でも、運命とか簡単に言ってしまうのは、ちょっと嫌だな)
知られたくない。言いたくない。と、隠し事をして嘘をついているような気分になったのはいつからだっただろう。
心苦しくて、でも、告げることはせずに曖昧に過ごした。
それは葵が “何か” から “特別” になったからだろうか。
(運命でも星の導きでも、なんでも感謝するけれど……必用だったから、こうなった)
今、葵は全部を知っていて。
ずっと、俺の側にいてくれている。
(今こうやって二人で並んでいられるのは、簡単に言葉で言えない積み重ね。そう思うから、簡単に運命だとは言いたくない)
夜空と葵を並び見ていたのに、いつのまにか葵だけを見つめていた。
葵は焦がれるように熱心に空を見上げている。
その瞳には星が写りこんで、出会った少女の頃と変わらずに純真に子供の様に真っ直ぐで、でもその横顔はずいぶん大人びてとても綺麗だ。
(可愛い)
微笑ましくて、ずっと見つめていたいと思う。
(こっちを見ないだろうか?)
つい触れてその瞳と関心を独り占めしたくもなる。
お互いに、唯一の存在だと認識しあっていてさえ、俺はそんなことを考える。
(尽きないな……)
心で独りごちる。
触れようか、このまま見つめようか、小さな幸せな葛藤。
「よかった………今年も」
どちらも決断せずに葵の横顔から目を離せないでいると、草花の影で鳴く虫の声が響く中で葵が独り言めいて呟いた。
注がれた視線の先には明るい2つの星の逢瀬がある。
今夜は七夕…牽牛と織女の星合の夜だ。
葵は彼らの逢瀬をいつも自分のことのように喜んで幸せそうにしている。
「お前は、優しいね」
声をかけながら伸ばした指先が、彼女が振り向いたせいで空をきった。
それに気づかなかった葵は、俺と視線が交わると嬉しそうに目じりを柔らかに和ませる。
その穏やかに愛しげな微笑みに、俺も自然と微笑んだ。
そのまま指先を伸ばしなおして葵の頬に触れ、これは無意識だったけれど、顔を寄せ触れようとしていた。
触れるよりも少し手前で俺の動きを察した葵がピクリと反応する。
逃げるでもなく、もちろん拒絶ではない反応だった。
(ん……あぁ、無意識ってこわい…)
俺は自分でも考えての行動ではなかったから、心の中で苦笑して、顔では笑みを深め、衝動を葵の頬を撫でるまでで抑えた。
(勢いでやっちゃうところだった。勢いに任せたら止められなくなるのに)
どう思っただろうかと葵を見ると、見上げてくる葵の瞳が不思議そうに、少しだけ残念そうに見えた。
(…残念がってくれるの?)
その真意を探ろうと覗き込むと、指が触れている葵の頬があきらかに熱を上げてくるのを感じる。
星明かりには分かりにくいけれど、きっと葵の頬は淡い色に染まっているだろう。
(可愛いな……)
心に小さな悪戯を思いついて、わざと口づけするみたいに顔を近づける。
葵の瞳には俺の姿だけがいっぱいに写りこんで、ゆっくり瞼が伏せられていった。
受け入れられてるのを感じて、心が温かく、熱くなる。
(衝動じゃなくても、とめられなくなりそう……)
「星の逢瀬をそんなに喜んでやるなんて、優しいと思ってね」
頬を撫でていた手をはなすと葵は閉じた目を開け、少し戸惑いの表情を浮かべてから恥ずかしそうに視線を落とす。
力一杯に抱きしめたくなる気持ちと、壊してしまいそうな切なさのせめぎ合い。
「おいで」
ちゃんと加減して、そっと葵の体を抱き寄せると、葵はそれに寄り添ってくれる。
心地良い重みと温もりに胸を奥から締め付けられるような感覚がわいてくる。
(葵といると、自分を制御するのが大変だね…)
「……お前って、いつまでたっても可愛い」
出逢ってすぐの頃から一生懸命な葵はとても素直で裏表のないまっすぐな娘だった。
俺の姿を見つけると嬉しそうに微笑んで、駆け寄って来て、かわいいと言えば照れて緊張しながら真っ赤になった。
その姿を愛しいと思わずにはいられなかったけれど、それがこんな風に独占欲を伴うようになったのはいつからだっただろう。
優しい、可愛い。それだけならここまで心惹かれなかった。
知っていけば、葵には頑なな意思や、意地っ張りの部分も、驚くくらい我慢強い面もあって、強くて優しかった。
「うん。おまえのこと子供だなんて思ってないよ。すごく強くて綺麗な大人の女性だって思ってる」
(来年も一緒に。と……心が欲してた)
その頃には葵の反応も最初と少し変わっていた。
照れながら、ぎこちなく寄りかかってくれるようになっていった。
「それに、俺だけの特別な人だしね…子供扱いなんか、しようにもできない。だけど……可愛いところは変わらないから、つい可愛いなって言っちゃうんだけど……嫌かい?」
「嫌なわけないです。それに、そんな風に言ってもらって、嬉しいです」
「そう、………うん、おまえはやっぱりかわいい」
からかうみたいに、恥ずかしがってるだろう顔を覗き込んでみる。
伝える言葉はどれも嘘じゃなく、俺の本音だ。
もう、この唯一の女性へ隠すことはない。
けれど本音や欲望。
それを全部ぶつけるのは、少しためらって誤摩化してしまう。
葵は、そんなこと全部受けいれてくれるだろうけど、それに甘えたら、俺はどこまでも助長するんじゃないだろうか。
これは理性というよりは見栄みたいなもの。
「……いつもそう思ってるよ」
(でも、隠しきることもできないんだよね…)
「本当はもっとかわいいって、好きだって言いつづけていたいんだけど、そんな風になったら……どう?」
「どう、って……」
「一日中好きだ、可愛いって言って……それから、ずっとおまえのことを抱きしめて過ごしたい。とかね。……ほら、困ってしまうだろう?」
「慶喜さん……」
(知って欲しいとも思ってしまうし)
葵は少しだけ考える様に視線をおとした。
(それに、隠そうとしても………)
それからゆっくりと一度伏せた瞳を上げて、腕の中から俺を見上げてくる。
そうして、突然に囁かれた言葉。
「……慶喜さん、大好きですよ」
誤摩化しのない言葉が、直接心に届く。
柔らかい微笑みにも、込められた想いを感じずにいられない。
(駄目なんだ……)
恥ずかしそうにしながらも、真っ直ぐに俺を見つめて思いを伝えてくれて、安心したように身を任せられたらたまらなくなる。
照れる姿もだけど、その心が愛しくてたまらない。
(隠させてもらえない……)
思わず、自分の顔が緩むのがわかった。
「………確かに…おまえに好きだって言われれば、俺もそうならずにはいられないね……何度聞いても、知っていても、すごく嬉しい」
何度も告げてくれた葵の思い。
「それにね、ひとつ白状すると……こんなに一緒にいられるようになって、いつも一緒にいるっていうのに……さっきね、星に見惚れるお前に嫉妬しちゃったんだよ…」
それをいつまでも大切に告げてくれるのが嬉しい。
「何度も思うよ、お前が好きだって……………っ!」
告げる言葉の途中で、嬉しそうに瞳を細めた葵が、突然少し背のびして、その唇が俺の頬に触れた。
「………大好きです」
頬をくすぐる位置で吐息とともに紡がれる言葉。
それからすぐに、もう一度今度は唇に口づけがおくられた。
俺は咄嗟に反応できず驚いたまま葵を見ると、葵は俺を見つめて、大人なのか子供なのかわからない、だけどすごく魅力的な表情で微笑んでいた。
「驚きました、よね?」
「…う、ん。少しだけ」
正直に答えると、葵は悪戯に、そしてちょっと挑戦的に笑って……でも、すぐ表情をはにかみにかえる。
「私も、いっぱい伝えたくて……言葉だけじゃ伝え切れなくて……だから、してみました……」
「驚いたけれど………嬉しい。もっとしてほしいくらい」
何度も交わした口づけだけど、口づけにも言葉と同じ様に、いつまでも大切に思いをこめてくれる。
もっと、とねだらずにいられなかった。
「もっと、いい?」
葵は、困ったように眉を下げながらも、一瞬の迷いの後、ゆっくり背伸びをして顔をよせてきてくれる。
俺はその動きに鼓動が速まるのを感じながら目を閉じた。
「……」
肩に、葵の腕の重みを感じて。
「…………」
鼓動は速まっていく。
(………………あれ………?)
触れるはずの淡い感触を待っていても、中々触れてはくれない。
「…………………………………?」
薄く、瞳を開けてみてみる。
「!?」
その瞬間を見計らったように、鼻先に触れる感触があって、俺は別の驚きを感じて、目を覚ましたすぐみたいに瞳をパチパチ瞬かせてしまった。
「ふふふっ……」
目の前には嬉しそうに笑う葵。
「さっき慶喜さんに焦らされたからですよ。仕返しです」
「え…」
俺は理解できずに、ただ葵を見つめる。
「星じゃないです。さっきの……」
「さっき?」
「さっき、慶喜さんが嫉妬して下さったって、私のこと焦らした時……」
「………うん」
「そのとき星に見惚れてはいましたけど、考えていたのは慶喜さんの事だったんですよ。”今年も良かった” って、慶喜さんとまた今年も七夕の夜をすごせてよかったって思ってたんです」
どんな顔をしていいかわからなくて、俺はただ葵の言葉を聞く。
「私、初めて慶喜さんと七夕を過ごした時にお願いごとをしたんです。また来年も一緒にいられますようにって……その次の年にも、その次にも、同じ事をお願いしました」
思いもよらなかった葵の言葉に、数年前のその夜のことを思い出す。
”俺も同じことを願っていた” とか……言葉がいくつか頭に浮かぶけれど、実際には何の言葉も出てこなかった。
どうしてか、目頭が熱くなるようで、微笑みを浮かべることができず、困ったような顔になっていたと思う。
「ふふ……悪戯してごめんなさい。慶喜さん、大好き」
「………っぅ」
そういって、葵はもう一度口づけをくれた。
「私、照れてしまったりしますけど、いっぱい言って下さって、思ってくださって、嬉しいです。私も、同じ気持ちです。だから、慶喜さんにも…伝えたいなって…」
(もう、駄目……)
「大好きだって気持ち。これしか伝えられなかったんです。ふふ………そんなに、驚いた顔の慶喜さん珍しい。いいですよね。ときどき、私からもしたって、悪戯や、それから…………口づけも」
葵からの口づけや、素直な告白や、焦らされたり、悪戯されたり。
(…くらくらする)
「駄目……」
「え」
「もう、我慢してたのに…………っ」
不思議そうにする葵が一瞬だけ見えたけど、答えてやる余裕はなかった。
衝動に負けて、
愛しいものをがまんできずに力一杯抱きしめて……
でも、衝動に任せてしまっても、腕の中にいる葵を感じながらには、
ただ愛しい。
すごく大切だ。
どこまでも大切にしたい。
そういう優しい想いしか出てこないのだ。
「葵が好きすぎて、困る……」
衝動に任せたままにはやっぱりできなくて、葵に視線で問うと、葵は返事みたいにそっと目を閉じてくれた。
愛しいものを大切に大切に扱う。
愛しいと、言葉だけで伝えきれずに、行動でもたりなくて。
触れ合うまでの、少しの距離と瞬きほどの時間。
触れれば、愛しい気持ちだけでいっぱいになった。
***
やっと口づけを離してから俺は言い訳みたいに呟く。
「もう、我慢したのに」
「我慢……」
(やっぱり、隠させてなんかもらえなかった)
今夜も、だったけれど、実はこんなことはよくある。
隠せなくなるくらい葵に心を開いてしまっている。
「そう。さっき言ったみたいに、色々と、ね……」
「そんなの…もっと、私が、私の気持ちをうまく伝えられたら……慶喜さんは我慢なんかしないでくれますか?」
俺の自嘲めいた言葉は、葵にはそのまま受け取らせてしまったようで、彼女は真剣な瞳でそんな返事をしてくれる。
「そうじゃないんだ。おまえはそのままでいいんだよ。結局、我慢だって、出来ていないわけだしねぇ…………ただの言い訳」
「それは…………我慢してみたけど我慢できなくなっちゃったってことですか?」
俺は苦笑しながら葵の頭を自分の胸に押し付けるようにして、顔をみせないようにする。
「まったく、俺はおまえには敵わないな…」
葵はいつもちゃんと受け入れて応えてくれる。
素直な心のまま俺を見つめてくれる葵に隠しきる事はできなくて、結局すべてさらしてしまう。
そうなると、隠そうとか、自制だとか、ましてや見栄だなんて、自分がに振ってみせる。
(いいんだろうか……)
この自分で制御しきれない矛盾や心や思い。
(いいんだろう…)
自分の知らない自分。
それが葵と共にある俺。
本当の、これが、俺なんだろう。
(だから、きっと、これでいい)
「じゃあ……お前を困らせるかもしれないけど、もっと素直になって、もっと甘えてもいいかな」
「……はい、もちろんです」
「でもさ、今でも、俺はおまえがいないと生きてられないのに。それより、もっと……なんてさ」
本音や欲望や言い訳や我慢や……何もかも考えられない。
何も、考えずに幸せな時間。
(……それは、どうしようもなく幸せだ)
「覚悟しといてよ?」
そう子供っぽく言いながら、俺は葵を抱きしめる腕に力を込める。
でも、壊さないように優しく。
腕の中で葵は嬉しそうに微笑みながら、ゆっくり身をまかせてくれる。
二人で重ねる星合いの夜の度深く切に願う……
また来年も一緒に。
いや、わがままになって、甘えてもいいのなら……
素直になるなら……
いつまでも、
いつまでも、一緒に。
そう 願う。