偶然という名の奇跡5
その3
それから四時間くらいが経過した。現在午後八時。俺は寝室を訪れた。まだ寝ているかもしれないが、一応ノックをする。
「あ、はい。どうぞ」
返事があった。どうやら起きていたようだ。俺はドアを開けて中へ入る。
「いつから起きていたんだ?」
「六時くらいからですかね」
「それから一睡もしていないのか?」
「はい・・・。何だか緊張してしまって・・・」
もう何度もうちには足を運んでいるだろう。寝泊りだってしたこともある。今更緊張などするだろうか。
とにかく、それでは二時間くらいしか寝ていないじゃないか。俺はベッドの横にしゃがみこみ、尋ねる。
「それで、体調はどうだ?」
「さっきより大分楽になりました。すみません、迷惑かけました」
「侘びはさっき聞いた」
俺は体温計を手渡す。最新のものではないので少々時間がかかる。
「そろそろ夕飯時だが、何か食べられそうか?」
かく言う俺はすでに夕飯を済ませたのだが。
「はい。おなか減りました」
寝ているだけだったというのに、よく言いやがる。とはいえ、そう言うだろうと思っていたので、すでにおかゆは製作済みである。
「じゃあ持ってきてやるから」
そこで、体温計がチープな機械音を上げ、計測完了を告げる。
「何度だ?」
「三十七度九分です」
さっき計ってから一度以上下がっている。どうやら落ち着いたようだ。その数値が本当なら、の話だが。
「見せてみろ」
俺は体温計の提出を要求すると、
「今度は本当ですよ」
こう言いつつ、岩崎は体温計を身体に抱え込むようにして、俺の要求を拒んだ。それじゃ、真意を確かめられないではないか。
仕方がないので、俺は先ほど同様、岩崎の額に手のひらを当てた。確かに若干下がったように感じる。すると岩崎は、
「ね、本当に下がっていましたよね」
などと言い、体温計を渡してきた。確かに岩崎の発言どおりの数値が表示されていた。始めから渡しやがれ、手間かけさせやがる。
俺が思い切りため息をつくと、岩崎は楽しそうにくすくす笑った。
どうやらからかわれたみたいだ。本当に面倒なやつだ。ま、それほど回復したということだろう。
「じゃあ夕飯の支度をしてくる。ちょっと待ってろ」
そう言って俺が立ち上がり、部屋を出ようとすると、
「あ、あの成瀬さん。できればリビングで食事したいのですが・・・」
「何で?」
「あの、ここだと少し落ち着かないもので・・・」
さっきも同じようなこと言っていたな。何で今更そんなことを言うのだろうか。ベッドの上で食事をするのが嫌なのだろうか?
「駄目だ。病人は布団の上から動かないものだ。これ以上迷惑かけたくなければ大人しく待っていろ」
おかゆを持ってくると、待ってましたとばかりに岩崎が手を叩く。どうやら熱だけではなく、体調的にも回復したようだ。ま、いいことなんだけどね。
俺はお盆ごと、岩崎の膝の上に乗せてやった。
「ありがとうございます」
「水は足りているか?」
俺はペットボトルを見て言う。中身はほとんどなくなっていた。返事を待たずに再び部屋から出て行こうとすると、岩崎は、
「あ、水はいいので、い、一緒にここにいて下さい・・・」
人は弱ると急に心細くなるという。だからと言って一駅以上離れた他人の家に来るのはどうかと思うが、これくらいなら許してやろう。
俺はきびすを返して、ベッドの脇に座る。
「成瀬さんは食べないんですか?」
「俺はもう食べたんだ。遠慮しないで早く食え」
「はい!いただきます!」
手を合わせてそう言うと、岩崎はれんげを持ち、食事を始めた。
「熱いから気をつけろ」
と言ったときにはすでに口に入れてしまった後だった。岩崎は何事か、はふはふ言っていたが、おそらく
「そういうことはもっと早く言って下さい」
と言ったのだろう。
「それで、いつからここにいたんだ?」
「えっと、だいたい二時くらいに寮を出たので、二時半くらいでしょうか」
すると、俺が家に帰ってくるまでの約一時間半、ああして外で待っていたと言うのか。全くご苦労なことだ。俺と岩崎はクラスが同じなので、今日の時間割くらい知っていたはずである。つまり、今日は何限まであって、何時くらいこの家に帰ってくる、というところまで予測が立てられたはずだ。それなのに一時間もこんなところで待っていたということは、無計画でここにきたということが解る。もしかしたら普通の時間に帰ってこない可能性もあったのだ。どうせなら連絡を入れてくれればよかったのだ。
「あんた携帯は持っていないのか?」
「ああ、そういえば、家に忘れてきてしまいましたね」
「化粧はしっかりしてきているのに、か?」
と言っても、いつもどおり薄くしているだけなのだが。
岩崎は黙り込み、顔を真っ赤にした。どうやら驚いているらしい。おそらく俺が気付いていないとでも思っていたのだろう。
「そんなどうでもいいことばかり考えているから、考えなくてはならないことを忘れるんだ」
「ど、どうでもいいことではありません!女の子にとってはかなり重要なことなんです!成瀬さんには解らないことでしょうけど!」
「食事中に叫ぶな」
これでは真嶋のメールに返事がないことも納得できる。余計な心配かけやがって。もちろん真嶋に対して、である。
「あんたの携帯に、真嶋からのメールが入っているはずだ。心配していたぞ」
「そ、そうですか。これは悪いことをしてしまいました・・・」
そういえば麻生も心配しているようなこと言っていたが、まあそれはいいか。うーん、何か他にも忘れているようなことがあったような気がするな。思い出したら言おう。
「成瀬さん、電話貸して下さい」
「何で?」
「決まっています。真嶋さんに連絡をするからです。心配かけて申し訳ありませんと、伝えたいんです」
本当に律儀なやつだな。しかし、
「後にしろ。それより先にさっさと飯を食え。おかゆが冷めると不味いぞ」
岩崎は思い出したように手元を見ると、急いでかき込み始めた。そして、
「まだ熱いと思うけど」
またはふはふ言って、残り少ない水を一気に口に含んだ。
偶然という名の奇跡5
その2
雨に対する愚痴が、いつの間にかこの世に対する八つ当たりに変わってきたころ、俺はようやくマンションに到着した。
自動ドアをくぐり、エントランスに入る。雨から解放されたことに、何となくほっとする。しかし、思ったより強かった雨により、俺の身体はびしょびしょである。頭しか守れていないこの折り畳みの傘ではどうにも防ぎようがなかった。どうして濡れることに対して、人はこれほど不快感を覚えるのだろうか。
どうでもいいことを考え始めた俺は、そろそろ限界だった。早いとこ着替えないと、さすがの俺でも風邪を引きそうだ。
俺は傘を畳むと、オートロックを解除しエレベーターに乗り込んだ。目指すは自分の部屋だ。
エレベーターを降りたところで、俺はまたしても奴と遭遇を果たした。嫌な予感である。やはりというか何というか、俺の嫌な予感はとことん当たる。原因が家でないことを祈ったらこれだ。俺は思わず回れ右したくなったが、そんなことをしてもどうしようもない。今までどおり面倒ごとと対峙するしかない。俺は部屋を目指して歩を進める。
そして、俺は足を止めた。そこはもう玄関の目の前だ。二・三歩でドアに手が届く。しかし、そのドアの目の前に人が座っていた。そして、そいつのことを俺は知っていた。
俺は去年の九月に起こった、これまた面倒な事件を思い出していた。確か笹倉のときも、俺の家の前から始まったのだ。あのときの笹倉はかなり様子がおかしかったが、目の前にいるこいつも、とてもじゃないが普通とは言えないな。
俺はそいつの前にしゃがみこみ、そいつの顔を覗き込んだ。体育座りのようにドアにもたれかかって座っているそいつは、眠っているようだが、楽しげな夢を見ているとは到底思うことができないような、辛そうな表情をしている。こいつ、いつからここにいたんだろうか。
「おい」
俺は軽く頬を叩く。起こさないという選択肢も俺の中にはあったのだが、如何せんドアにもたれかかっているのだ、起こさなければ中に入れない。
「・・・・・・ん」
どうやら起きたらしい。
「あ・・・・・・、成瀬さん。お帰りなさい・・・」
暢気な第一声を放ったそいつの声は、元気なときのバカでかい声と似ても似つかないほど弱々しいものだった。
「学校サボって何しているんだ?」
どう控えめに表現しても、明らかに衰弱している。
そこにいたのは岩崎だった。
いつからここにいたのか、いまいち不明ではあるが、どう見ても風邪が治ったからここに来た、という様子ではない。逆にこの雨模様の中の外出で悪化してしまったのではないかというのが俺の見解である。
「午前中はちゃんと横になっていたんですが、時間が経つにつれてだんだん独りでいるのが苦痛になってきてしまいまして・・・」
これは俺の問いに対する答えだろう。照れているのか、自嘲気味に笑うその笑顔にも、やはりいつもの力強さがない。
「・・・来ちゃいました」
「・・・冗談も休み休み言え」
俺はもう呆れるしかなかった。開いた口が塞がらないとはこのことだ。バカだバカだと思っていたが、ここまでだとは思いもよらなかったね。
岩崎がいつもの状態であれば、自分がどれだけバカで愚かで考えなしであるかを、言葉の限りを尽くして説教してやろうかと思った。
が、止めた。何度も言うように、今のこいつはいつもの状態ではない。今言っても最後まで耐えられそうにないし、どうせ覚えてもいないだろう。聞いてもらえない説教ほどむなしいものはない。やれやれ。
俺はため息をつくと、
「立てるか?」
岩崎に肩を貸して、起こしにかかった。
「す、すみません」
岩崎は真っ赤な顔で侘びの言葉を口にした。謝罪の言葉などいらないから、二度とこんな無茶をしないでくれ。なぜだが知らないが、あんたが無茶をすると俺に被害が及ぶ。それが現在の世の中の仕組みらしい。そう考えると、侘びの言葉を素直に受け取れなかった。
いっそのこと追い返してやろうかと思ったが、外は雨が降っている。こんな中一人で放り出したら、大袈裟ではなく死んでしまう。それ以前に、仮にも病人である岩崎に対してそこまで邪険にすることは、さすがの俺もできやしない。
とりあえず、
「気にするな」
と言い、岩崎の身体を支えながら家の中に入った。
今すぐ着替えたかったが、まずは岩崎を何とかしないことには、自分のことに移れない。俺は岩崎を寝室に連れて行くと、洋服ダンスを漁った。何か着替えるものは・・・。とりあえずこれでいいだろう。スウェットを上下取り出すと、岩崎に手渡す。
「これに着替えろ」
そう言い、部屋を出た。この女、今にも死にそうな顔をしているくせに、しっかり余所行きに着替えてここに来ているのだ。さすがにそんな格好で寝かせるわけにはいかないし、それ以前に少なからず濡れていた。スウェットはもちろん俺のものだが、仕方ないだろ。文句なんか言わせないね。
岩崎が着替えている間、俺は薬を探すことにする。先ほど少し歩くのも辛そうにしていたので、おそらく着替えにもそこそこ時間がかかるだろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
うーん、ないな。考えてみればここ何年も俺は風邪を引いていないのだ。薬などあるはずがない。あったとしても一体いつのか解らないような年代ものだけだろう。さすがにそんなものを飲ますわけにはいかない。
それでもしばらく探し回ったところ、体温計だけは発見した。これも現代的なものではなく、小さいころ世話になっていたようなアンティーク物だったがないよりはましだろ。
体温計だけ持って寝室に戻ると、
「あの、成瀬さん・・・」
全く何を考えているのだろうか。岩崎がドアを開けて、そこから顔だけ出して俺のことを待っていた。
「あの、着替えましたけど・・・」
見れば解る。と、普段なら言うところだが、今日は止めておく。
「そうか」
そう一言口にして、寝室に入った。
「探したんだが、薬は見つからなかった」
「あ、それなら私が持っていますよ」
岩崎は自分のかばんから錠剤タイプの薬を取り出して見せた。今考えれば、容易に思いつきそうなことだった。
「とりあえず体温計っておけ。今水を持ってくるから」
「・・・はい」
俺は部屋を出ると、台所に向かった。屋内に入ってから若干体調が落ち着いたように見える。さすがに外での待ちぼうけは堪えたのだろう。そりゃ当然だ。元気な状態でもいつ帰って来るか解らないようなやつを待つのは堪える。とりあえず早く帰って来てよかった。日が暮れてから、今より悪化した状態の岩崎が玄関先で横たわっていたら、さすがの俺もパニック状態に陥って、条件反射的に119に電話していただろう。
俺がペットボトルに水を汲み、部屋に戻ると、岩崎はベッドに入り、体温計とにらめっこしていた。
「計ったか?」
「はい」
「何度だった?」
「さ、三十七度五分でした」
意外に低いな。と、思ったのは一瞬だ。
「嘘をつくな」
「え?」
俺は岩崎の額に手のひらを当てた。
「三十九度、ってところか?」
「何で解るんですか?」
もちろん解るわけない。ただのハッタリだ。若干高めに言ったのだが、まさかそんなに高温だったとは。
「こんなときに嘘つくな」
「でも、私の感覚的には本当にそんな感じですよ。あまり辛くないです。きっとじっとしていればすぐによくなりますよ」
それも嘘だな。おそらく心配かけまいとしているのだろうが、それならこんなところまで来ないでほしい。じっとしていなかったからこうなったのだろうが。岩崎が精神的に強いのはずいぶん前から知っている。おそらくそれと同じくらい身体も強いのだろう。逆に俺はそんなに強くない。もし次に麻生あたりがうちの前で倒れていたらショック死してしまう。それに、あまり辛くないなら人の家の玄関先で倒れるな。
「強がりはいい。それより薬を飲んで早く寝ろ」
それからしばらく、岩崎は自分がそこそこ元気であるというアピールをしていたのだが、それが聞こえなくなったと思ったら、寝ていた。先ほどと違って呼吸も寝顔も穏やかだと思ったのは俺の気のせいではないだろう。
俺は自分の着替えを手に取ると、静かに部屋を出た。
偶然という名の奇跡
その1
担任の話では風邪らしい。朝のホームルームでそう言っていた。何でも本人から直々に連絡があったらしい。今時欠席の連絡をするやつがいるのか。今更ながら律儀なやつである。真面目が服を着ているみたいなやつだからな。仮に真面目が物理的なものとして存在していたとして、そいつに口をつけて足を付けたら、それはもう岩崎である。それが、俺の岩崎に対する印象である。悪いやつではないのだが、俺は岩崎ほど真面目じゃないので、いろいろと付き合わされると正直つらい。
仮病なんてことはないだろう。嘘をついてまで学校を休むとは思えないからな。むしろ逆によほどの高熱が出ているのだと思う。そうでなければ岩崎が欠席なんてするわけがない。今年の風邪はそれほど性質が悪いのか。俺も気をつけなければならないかもしれない。
それにしても。
「・・・・・・・・・」
何とも静かだな。何度も言うが、俺はあまり仲のいい友人がいない。十年来の腐れ縁、麻生は別のクラスだ。つまり岩崎がいないと、俺の日常はこんなにも静かで穏やかなのだ。一年ほど前まではこれが本当に日常だったのだが、ここ最近は、これほど静かな日はほとんどない。何となく懐かしい気がするのは気のせいじゃないだろう。俺は満喫することにする。岩崎が風邪で欠席することなど、そうあることじゃない。現に、高校に入ってから初めてのことである。もちろんTCCは休業だ。久しぶりに早く帰ることができる。帰ってからやることを前倒しに出来るから、今日は早く寝ることができるだろう。
「・・・・・・」
しかし、何だ、この違和感。胸の中にあるもやもや感は。気持ち悪いな。
「岩崎さん、大丈夫かな?」
ふと、隣の席の住人真嶋綾香が呟く。その呟きはおそらく俺に向けてのものだろう。
「大丈夫だろ」
根拠はないが、風邪程度に岩崎がやられるとは到底考えられない。寝込んでいる姿も想像できない。
「でも岩崎さんが欠席するなんて・・・。風邪、相当悪いんじゃないかな・・・。心配だなあ」
何やら深刻そうに呟き、目を伏せる真嶋。こいつもつくづく真面目である。
「ねえ、成瀬も心配でしょ?」
心配なんてするわけない。と、すぐに返事することができなかった。なぜ?もしかしたら、この胸の違和感。俺は岩崎を心配しているのか?
「心配、ねえ」
口に出してみる。が、よく解らなかった。
「お見舞いとか行こうかな」
真嶋が若干暴走し始めたところで、俺は思考を停止した。考えても解らないものは解らないのだ。こういうことは時間が解決してくれるはずだ。
「止めておけ。移されるぞ」
「あんた、本当に薄情者だね。いつも岩崎さんにお世話になってるでしょ?」
「迷惑をかけられている、の間違いだ」
「岩崎さんじゃなくて、あんたが病気になればよかったのに。岩崎さんに移されればいいのよ。そうすれば岩崎さんの病気も治るかもしれないしね」
「お断りだ」
あいつがかかった病気など、得体が知れない。何といってもあの岩崎を行動不能に追い込んだウイルスだ。俺が感染したら生死に関わるかもしれない。
と、ここで俺の危険探知能力が覚醒する。嫌な予感がする。現在俺の嫌な予感は、天上知らずな勢いで的中しまくっている。ノストラダムスなんて目じゃない。今となっては天気予報よりは確実に上であると断言できる。嬉しくないが、どうやらまたしても俺に悲劇が待っているようだ。今度は何だ?せめて三時間半の超巨編でないことを祈るぜ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
「そうか、岩崎が風邪を」
昼休み、俺は麻生のクラスに赴き、岩崎の欠席を伝えた。
「ま、当然だと思うが、今日のTCCは休業だ。俺も帰るつもりだから、放課後何か予定入れていいぞ」
まあ放課後にでも伝えればよかったわけなのだが、情報の伝達はできるだけ早いほうがいい。そんなに手間というわけではないのだから、昼休みに来てやったのだ。
「それはいいんだが、俺は委員会の仕事があるんだよ」
そういえばこいつは図書委員会に所属していたな。似合いもしないのに。まあ、女子と仲良くなれるかも、などという不純な動機でうかつに委員会などに入ってしまったことを嘆くんだな。言うまでもないが、俺は無所属である。俺がやらなくてもいいことを、率先してやるほど俺はできた人間でも偽善者でもない。
昼休みなこともあって、麻生のクラスの連中は弁当を広げて食事の真っ最中というやつが多い。俺は麻生を廊下に呼び出したわけだが、ふと教室内を覗くと、一人の女子生徒と目が合う。そいつは図書委員会での麻生の相方であり、今年度の始めに一悶着あったときの関係者である。目が合ってしまったし一応挨拶らしきことをしておこうかな、といった感じで右手を軽く挙げ、適当に手を振ってくるそいつは、そっけない感じではあるが、始めたしゃべったときより格段にフレンドリーな対応をしてくれている。俺は苦笑いを返すだけにとどめておく。
「とにかく、そういうことだから」
俺は無理矢理まとめにかかった。何となくこれ以上ここにいると話しかけられそうな気がしたからだ。
「了解。しかし岩崎が風邪ねえ」
俺の気持ちを無視して(もちろん口には出していない)、麻生は呟いた。何だ、その意味
深なセリフは。
「ちょっと心配だよな。見舞いにでも行くか?」
「遠慮する」
真嶋がそんなことを言っていたから、二人で行ってきたらどうだ?しかし、いくら岩崎とはいえ、風邪程度で大袈裟ではないだろうか。現在自宅療養しているのだ、すぐに治るだろうよ。無理して出てきているのなら話しは別だが、殊勝なことに欠席しているんだから平気だろ。そう、無理してなければな。
授業が進み、俺の静かな日常が終わりに近づいてきたそのころ、文字通り暗雲が立ち込めてきた。今にも雨が降ってきそうな黒雲が、学校の真上を覆っている。嫌な天気だ。
「成瀬」
突然声をかけられて、俺は窓の外から視線を移す。いつの間にやら始まっていたホームルームの最中、声をかけてきたのは真嶋だった。
「何だ?」
「さっき岩崎さんにメールを送ってみたんだけど、返事がないの」
「眠っているだけじゃないのか?」
「そうかもしれないけど、あたしやっぱり気になるんだ」
こいつがこんなにも世話好きだったとは知らなかったね。岩崎が伝染したんじゃないか?
「だからあたし、お見舞いに行ってくる。成瀬も行かない?」
どいつもこいつもそんなに岩崎が気になるのか?ご苦労なことだ。
「俺は遠慮する」
俺の言葉に対して、真嶋は、
「そう・・・」
と一言口にすると、それ以上何も言ってこなかった。
「お大事にと伝えておいてくれ」
真嶋と話をしている間にホームルームは終わり、放課後となった。真嶋や三原・戸塚を始めとするクラスメートたちと適当に挨拶を交わし、教室を出て下駄箱に向かうと、そこから見る風景は雨模様だった。とうとう降ってきてしまったか。雲の様子や雨の強さから考えると、とてもじゃないがしばらく止みそうもない。仕方ない。雨宿りという選択肢は切り捨て、帰るとするか。雨の中歩くのは好きではないのだが。
俺はかばんから折り畳み傘を取り出すと、自宅へ向かって歩き始めた。
そこで俺の頭の中を嫌な予感が通り抜ける。またかよ、一体何だって言うんだ。何かを警告してくれるのはありがたいのだが、詳細を教えてくれないと、何の対策も解決策も思い浮かばないんだが。無闇に怯えさせるのは親切とは言えないぜ。
一旦足を止めそうになったのだが、ここにいたって仕方がない。俺はため息をつきつつ、一路、家に向かって歩くのだった。
ここで一つ解ったのは、どうやら嫌な予感の原因は学校ではなく、家のほうにあるみたいだ。珍しいパターンだな。どうでもいいが、あくまでも家のほうであって家自体に原因がないことを祈る。家に現在の俺の恐怖の対象があるならば逃げることができないからな。
しかし、俺の直感は当たるのだが、役に立っているのか、いまいち不明だな。
役に立っているのか不明なのは、俺の頭の上にある折り畳み傘も同様だ。持ち運びに便利とはいえ、何だってこんなに小さいのだ。これでは下半身はおろか、上半身すら守れていないではないか。すでに俺の制服のスラックスは雨が浸みてきていて、内側の生地が足にまとわりついてきている。気持ち悪いったらない。これだから雨は嫌いなのだ。折りたたみは小さいし、かと言って普通の傘を持っていくのは面倒だ。結局一日を通して雨が降らなかったことを考えると、何となく持っていくのを躊躇われるし、すっかり晴れてしまっているのに傘を持っている自分を想像するとちょっとした恐怖である。この辺りでようやく考え始める。今日は厄日なのではないか、と。