前回からのつづき
 

結論から言うと

食感”が思う以上に食の定義や美味しさに貢献している

のではないか、という内容になります。

 

おいしさというとつい味を連想してしまいますが、実は

食感こそ食の芯となる重大要素であり、深めるもの

 

 

極端ですが

御菓子の”うまい棒”を決めるのは、味ではなく食感、と言えます。

チーズ味、サラダ味、バーベキュー味…などたくさんの~味があります。

しかし、チーズ味を食べたからと言ってチーズを食べている、ということにはなりません。

正確な理解としてはチーズ味のうまい棒を食べている。

うまい棒はあの独特の長細い円筒形をザクっ、且つしっとりした食感で食すとき認識されます。

コーンパプスナック菓子独特のあれが、認識を呼びます。

これにより”うまい棒”と脳舌は判断します。(味は決定打ではありません。味による定義は後付けです)

 

 

かき氷もうまい棒の説明と同じになります。

~味のシロップをかけてもかき氷はサクサクに削った細かいフレーク状の塊の食感がかき氷。

これ(とキンとした冷たさ)が決め手になります。

 

 

この食感重視の考えを採用するとスープカレーをより理解することができます。

 

スープカレーは、カレーなのかスープなのか論争が絶えません。

しかし、この食感を秤にしてみると、”カレー味のスープ”が現実的な着地点になります。

これをドライ・ライスと食べることで生まれるものです。

ドロッとしたカレーライスと思いこんで食べてもこの料理にぴんとこないでしょう。

ふっくら炊き上げた白米と食べても誤謬を生むでしょう。

それだと従来のカレーライスの思い込みが邪魔をして、スープカレーのオーセンティックなよさとの齟齬を起こしてしまう。

液体(スープ)感と大型多種の具に混乱し、スープカレーのつぼに気づけない。

むしろ、カレー味のスープと断定するか、

まったく別物の分野(スープでもカレーでもない新種)として対峙する方が脳が納得します。

 

 

 もう少し、食感についての例を続けます

 

 

 

 

〇バラバラに食べるときと、一緒に食べるときでは印象が違う

  これも食感の違いの一種と言えるでしょう

 

 

 おにぎり

 

手で持った”かたまりの触感”、そのかたまりを食むときの食感が(おにぎりの定義として)大事。

これがおにぎりを成立させる大きな認識柱の一つです。

 

お茶碗に盛ったご飯に食塩を振りかけ、具(梅干・鮭など)をのせ、海苔を巻いて箸で食べても、おにぎりを食べた気にならないでしょう。味はおにぎりのはずだし、最終的に同じ具が口の中にあるにもかかわらずそうなりません。

 

あくまであの重量感と”食感”がおにぎりをおにぎり足らしめている。思った以上に食感はその食べ物を定義する上で重要です。というか絶対外せない条件と言えます。

 

 

 サムギョプサルの場合、

 

①豚肉を口に入れた後、葉野菜(サンチュ)を口に入れると②葉野菜を巻いて同時に口に入れるのとでは微妙に感じ方が違う。

 

 

 

 にぎり寿司の場合

 

シャリとネタは二つで一つ。それがにぎり寿司というものです。にぎり寿司という概念。

もし、シャリとネタを分けて食べている人がいたとしたら、日本人的に不自然さを感じます。

お寿司という料理を食べたことにならない。

少なくともそれではお寿司を(完全に)食べた気にならない。

 

重ねたものをまとめてひと噛みで食べるときにしか生まれないおいしさがあることがわかります。

 

 

ハンバーガー、サンドイッチ、トルティーヤなどにも同じことが言えます。

バラバラに食べたらそのメニューではなくなってしまう。

重ねものとでも呼ぶべきか。

 

 

これらのことから料理は大きく3つの部類に分けることができる

 

 

① 一品料理もの。小皿に分けて一つひとつを食す。(伝統的な日本料理に多い。お刺身、ツマ。漬物。奴豆腐。ご飯。焼き魚一匹)

 

② 重ねもの。ハンバーガーやサンドイッチ、握り寿司など。

 

③ 完全に混ぜたもの。シチュー、マーボ豆腐。

 

 

 

 

 その他の気づき

 

 

概念化した料理を頭の中で分解することはできない。

 

思い込みの力は強いようです。(上記はいい例かと思います)

料理とて思い込みによって成立している。(またその料理の概念を実は食べている、とさえ言える)

 

それはそのまま(食)文化を食べているともいえる。

 

 

 

 (おわり)