この一年余りの間、身近な人が3人亡くなった。
10カ月前、父が老衰で。春先に47歳の仕事関係者。一か月以内に38歳の仕事関係者。
死因はそれぞれ異なり、父以外の二人はそれぞれ感染症と白血病で急逝した。
人はこんなに簡単に死ぬものか、と訝しく思う。
高齢の母がいるし、いやでも死について考えさせられることになった。
(身近な人というのは、身内の者、同じ職場で働いたことのある人、会話を何度もしたことがあるくらいの範囲の人のことを言っている。)
ある生活レベルでお付き合いのあった人。死とはその人を失うことだが、本当に失ったのだろうかと思う。その人はもうこの世にいないのだから、もう会うことはできないが、関係が途切れてしまったのか、と言えばそうではない。
少なくとも”関係”だけは途切れていない。自分の父親は死んでも父親だ。職場の同僚もいつまで経っても同僚だったことに変わりない。(関係とは精神的なつながりのことを言う)
死んだ人と交わした会話は覚えているし、その人との約束があれば守ろうとも思う。
お盆になれば、死んだ祖先(の魂)を家に迎え入れようと準備するし(浄土真宗はそういうことはしないが。)。死して尚、自分という存在をつなげてくれている存在だと感じる。我々は関係の中に自らを見出し生きている。 生前、一緒に行った場所にまた行くこともある。その人がきっかけで行った場所に行くこともある。生きていた頃とは違う次元の存在になっても、なんらかの繋がりを持ちながら(なんらかの影響を受けながら)生きていることは事実だ。
各コミュニティ、家族関係から立ち上がる精神的柱とでもいうべきものだろうか。この世に絶対などというものはないけれど、人にとって絶対的に必要とされるものはこうした”関係”から生まれるのだろう。そして身近な人が亡くなると、それらがまだ死んだ人たちとの間に継続されていることを実感する。
それにしても死んだあとどうなるか誰にもわからない。真相は生きている限り、藪の中。故に死という概念に畏敬の念を覚えたり、深淵さを感じたりする。(亡くなった人はまだ向こうの世界で生きているのだろうか?など、いつまで経っても答えは出ない)(※)
直観的には、死んだあと続きがあるような気がする、という予感はあるかもしれない。
地球や大自然に還る、という感覚もあるだろう。
また、死についてドライな見方をすることもできる。
肉体が死んだら、精神という現象を生み出していた媒体が(永遠に機能停止し)、精神も消えてしまう。無みたいな状態になる。無宗教者をはじめ、こう考える人は多いと思う。
一方、量子学(という最小単位)の世界では生活上の常識とはまるで違う現象が起こる。直観や経験では推し量れない結果を起こす。人の意識が量子学に基づく法則と結びついているとしたら、死後の続きがあるかもしれない。我々が想像するものと違う死後かもしれないが。死後は無の状態と100%言いきれないところがある。量子学の進展により、死後、続きの意識世界がどこかに存在する可能性が高まるかもしれない。
しかし、今のところ真相は誰もわからない。
どちらにしても、先に死んでいった者たちをリスペクトすべきではないだろうか。とにかく死んだ人を一律に。少なくとも、あの死というものをすでに体験した者たちなのだから。それだけで尊敬に値するのではないかと思う。
(おわり)