夢を見ている間は、常に漠然とした希望観測と不穏が同居しているような心境だと思うけど、どうだろう。頭の中は常にぼんやりしているから

何に向かっているのかよくわからないけどそこにある(これもよくわからない)環境に属している感覚はある。

それは意識に通底するものが漠然とした希望観測や不穏であることを示唆している。

それから決められたことを何故かやろうとする。その場にある決め事をなんとかこなそうと努める(苦慮する)。いざ思い通りできない(失敗したかもしれないものがある)とものすごく気になるが、そのうちぼんやりした頭に呑み込まれて次のフェーズへ進んでいく。

これは人が習慣づけられた何かに従おうとする習性を示唆している。

(生まれ育った集団環境(文化・信仰・習慣)の影響が意識の深いところまで及んでいる)

(集団意識の方が個人意識より深いというユングの言葉を思い出した)

そのぼんやりした靄(もや)の向こうに自分の無意識を知るヒントがあるなら大変興味深い。

 

 

さて、もし楽しい夢なら、続きをみたい?

 

たとえば、奴隷にされた人、実刑を受け刑務所にいる人など、様々な自由を大幅に制限されている人が最後に楽しみにするものは、(眠り、)いい夢を見ることだろうか。

自由を奪われた人は眠って夢を見るしかない?

 

しかしいい夢はよすぎると起きたときがっかりする。たとえば、宝くじに当たった夢を見たら(それを信じてしまい)天にも昇る気持ちになるが、起きたときの落胆がこの上なくひどいものになるのは目に見えている。(実際、それくらいの落差はほぼ夢と現実の落差くらいしかない。しかし多かれ少なかれ現実でもそういうことを繰り返している)

そのくらいはすぐ予測できるのではじめから夢など見たくないと思うかもしれない。

 

(えっ、それでも続きをみたい夢がある?へぇ、どんな夢だろう)

 

 

今現在も奴隷状態にされている人はこの地球上にいて、その人たちはどんな夢を見て、どんなふうに感じ取っているのだろう。

地獄のような現実と、夢の関係を思う。

 

そもそもうなされるような夢ならはじめから見ないほうがよい。

 

とにかく人類はたくさんの夢を見てきた。

 

 

(つづく)