谷崎潤一郎『陰翳礼讃』
短編エッセイ集形式
久しぶりの縦書きの読書
考え方を楽しむ
考え方を考えることができる機会を(余裕をもちながら)持てる悦び
そういう美徳が読書にはあると思いますが、
正直、筆者のこだわりが強く出ているな、というのが読後の感想になります。
「ん、少し神経質な○○フェチ入ってる?」みたいな気味…
ただ文学は感受性を文章にするものなのでフェチを含めてもよいかと。
(他の作品を読んだことがないので簡単に結論付けできないのですが)
忌憚なく云わせていただければ、
「このおっさんマニア心をくすぐりそう…」という印象。
そういう本です。
※
・失われつつある伝統的な陰影文化への哀愁
・近代の料理評論家の文章に通ずる
・神経質な人柄が書物から浮き立つ(文は人なりを思う)
・細かいところに目が行き届き、洞察力に優れる
・鋭い観察眼とフェチ感覚のバランス
・文体に性癖が見られるが丁寧で冷静。整然として正しい作法
・微に入り細を穿つ。豪著というわけでもない文体
・谷崎はほのかな明かり、薄暗さを愛し、そこへの執着、嗜好こそが日本の伝統をつくってきた、と確信していた。(単純に)その方が落ち着くからだ
・谷崎は陰影を愛した日本の文化に落ち着きを感じた
・文章力はレべチなので才能はフェチを許す、を実証してみせた本
・総じて執着気味な気配を含めたものが谷崎文学の魅力と言えそう
(文化批評文の『陰翳礼賛』でこれなら、他の耽美派作品って…)
『陰翳礼賛』は、概して日本文化(当時の現状)についての随想形式の批評文。
西欧文明が入る前の日本文化の美徳の消失を嘆いています。
これは日本人ならそれほど突拍子のないものには聞こえないでしょう。
彼の嗜好が一般的な日本人の嗜好と被っていれば、多くに理解される文章になるわけですから。
むしろ気づいていなかった/言葉に出来なかった自分自身の嗜好を暴いてくれる読み応えがあるなら至高(嗜好?)の一品になるでしょう。
少し昔の日本人の感覚ではあるけれど十分共感できたし、当時の文化感覚がまだ自分の中に残っていることを実感できると嬉しくもなります。
(気に留まった文章を抜粋)
ぜんたいわれゝゝは、ピカピカ光るものを見ると心が落ち着かないのである。西洋人は食器などにも銀や鋼鉄やニッケル製のものを用いて、ピカピカ光るように研き立てるが、われゝゝはあゝ云う風に光るものを嫌う。p.20
わからないこともないのです。
というのも、わたしは京都の神社仏閣など哲学的な空気は好きです。あれらは明るすぎてはよくない。LEDの明るさなどもってのほか。
あと、ひとり旅などするとき陰影のある街(裏路地とかディープスポット)を散歩するのが好きです。キラキラしたところばかりだと深みを感じません。
日本料理は食うものではなくて見るものであると云われるが、こう云う場合、私は見るものである以上に瞑想するものであると云おう。p.28
正直、瞑想発言には吹いたがおもしろい。
日本文化は禅など仏教的な思想に影響されたものが多いことも影響?
哲学的というか。日本で唯一哲学的なものって禅ではないかな。
羊羹。
かつて漱石先生は「草枕」の中で羊羹の色を賛美しておられたことがあったが、そういえばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光を吸い取って夢見る如きほの明るさを啣(か)んでいる感じ。あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。クリームなどはあれに比べると何と云う浅はかさ、単純さであろう。p.28
光を吸いこむ!夢見る如きほの明るさ!食と光についてもう少し考えてみたくなった。谷崎が書いてくれたので話のネタにできそう。
彼は闇と羊羹の味の関係についても言及。(少し、大げさな気もする。谷崎は妄想太郎か?)
すべのものを詩化してしまう我等の先祖は、…p.12
現代に欠けたもの。
人間が人間であることを証明する最大の特徴なのに。
もし能楽が歌舞伎のように近代の照明を用いたとしたら、それらの美感は悉くどきつい光線のために飛び散ってしまうであろう。p.43
そして歌舞伎劇の美を滅ぼすものは、無用に過剰なる照明にあると思った。p.45
日本の伝統文化が、”どぎつい光線”によって消滅していく説はおもしろい。
これを読むと、伝統的な歌舞伎は既に本質的(オーセンティック)な美感を失っていると言える。
昔話などに出てくる(どこか親しみのある)妖怪などもどぎつい光線によって絶滅したとしたら。
思えば、柳田國男の収集した民俗学的世界観も西欧文明的などぎつい光線によって一掃されてしまったとも言える。
光というと美を思うかもしれないが、こと日本に関して言えば強すぎる光が日本の陰に潜む幻想美を搔き消してしまった。→光のでしゃばりが、曖昧で幻想的な世界への入口を閉鎖してしまった。
(おわり)