少し前、『音楽の才能をある民族の遺産として扱ってよいか?』的なことをエッセイに書きました…
今回は、……
『音楽は人にとって必需品か?』をテーマに書いてみようかと思います。
メキシコ系アメリカ人の方と交わした音楽についての会話が発端になります。
(簡単な会話です)
わたし:「ここ数年、あまり音楽を聴かなくなってしまった。」
と言うと
彼:「えーっ、なぜ!?そんなの信じられない。」「聴こうよ。」
といった感じで返されました。
まぁ、なんでもないやりとりでしたが、彼は、音楽のない生活は考えられない、
音楽は人にとって必需品と主張します。
この後、話が盛り上がったのですが、(そこは省略して…)掻い摘んだところをまとめてみると、果たして音楽は人間の一部を構成しているとまで語れるのか…がテーマになっていたと思います。
・その際、聞いた理由をまとめました
彼はアメリカに住んでいた頃、短い間ながらも軍隊に所属していたそうです。基地には特殊な規則があり、入隊後はじめの数ヶ月は音楽を禁止されたそうです。当初の一か月は誰も気にする者はいませんでした。ところが2~3か月ほど過ぎると、歌の一節を口ずさむ者がぽつぽつと現れだした。そうして時が経つほど各所から漏れるように鼻歌が聞えるようになったのです。まるで伝染するかのように広がっていったそうです。それはアメリカ人なら誰でも知っている(一般的に知られている)音楽だったようです。
彼はこのときのことを何か不思議な現象に感じたそうです。
彼はそうした軍隊の経験から、”人にとって音楽は必需品”だと感じたそうです。
個人レベルだけでなく集団・組織・社会的に追い込まれたとき、必要になってくる…
しかし、
これは一体どういうことなのでしょうか?無意識の中に音楽があることを意味するのか。もし、そうならば音楽にも禁断症状があるのか。
そもそも
音楽って何?と思ってしまいます。
まるで一定期間、音楽を禁止することが、時間をおいて音楽を発現させるタイマーの設定のようにも受け取れます。人類はずっとずっと昔から(それとも悠久の時間とも言える中)、これを繰り返してきた?
仮説ですが、音楽とは抑圧された人間が起こす反発的な生理現象かもしれません。
そして音楽とは思った以上に(母)集団に共有されている共通意識なのかもしれません。
かなり圧迫された状況にならないとわからないものなら、わたしの状況はまだそのプレッシャーのレベルに達していない…
・音楽は意志の直接の客体化
・音楽は人間の最奥に語りかける普遍的な言語である。
・生は苦悩だ。音楽は束の間、この苦悩を忘れさせる特別な経験なのだ。
ショーペンハウエル
を思い出しました。
(おわり)