李禹煥展(国立新美術館)

写真撮影禁止

 

 

 

 

もの派

関係項

余白

 

元々これらの概念や専門用語は現代詩への関心から覚えたものだったけれど、その影響からなのかこれらを自然と受け入れることができた。

ものと概念の哲学に基づいているのでしょう。

近代言語学も関係から始まっているので現代詩とシンクロする部分がある。

 

 

 

(この作品のみ撮影可能)

 

 

(持論)

 

ニーチェの有名すぎる言葉

「神は死んだ」

  ↓

絶対的な存在はなくなった(キリスト教の神はその最たる存在)

  ↓

相対性、関係しかなくなった世界観

 

 

絶対的存在を失った芸術家や詩人が次に何を頼りにしたのか。

 

 

限界まで細長く垂直に向かったのがアルベルト・ジャコメッティの彫刻でしょうし、それも実存が到達する一つの自然な表現形式だっただろうし

少なくとも芸術鑑賞や近代アート史を楽しむ際の手がかりにはなります。

 

ジャコメッティの彫刻

 

細長いが強く生きている

たった一人でもやっていけている

 

 

 

 こうした時代思潮の中での試行錯誤があったかどうかは実のところ知らないのですが、あくまで「わたし個人」はこうした見方を美術館でしていました。

 

 

 

(作品全体の感想)

 

 ・密教的な思想や鎌倉時代の枯山水の宇宙観にも通底していそう。

 ・素材をほぼ加工せずその状態のまま関係性の相互作用だけで作品に活かすスタイルはブリ・コラージュっぽい?

 砕いて砕いて言えば、「日本食っぽい」?

 刺身や豆腐など素材はそのまま。口の中ではじめて混ぜ合わせる。構造主義者レヴィ・ストロースが来日したとき日本食を分割主義と言ったとかなんとか…

 西欧・中国料理は、シチュー、マリネ、麻婆豆腐など最初から味と味を混ぜ合わせる。はじめから一緒たくに混ぜてしまう。(ケーキなどもいくつものレイヤーになっている)

 

 ・鳥居や凱旋門などのアーチ全般について

  ”アーチ”をくぐると風景が一変したものになる。 気持ちが新鮮に生まれ変わると(本人の音声解説)。さすがに感性の絶対値が違うなと感心。

 これには隠された秘密があることを開示しているに違いない、なんて芸術家に言われたら、そんな気がしてくる。

 

 ・身体五感を通した鑑賞を勧める。 ここらへん現代アートのあるある

 ・一瞬の出会いの衝撃とその後の永遠性の拡がりを余白に満たす、とか時代を超えた不変的価値に拘る姿勢は微妙に古臭さ(古典)を感じるか。

 

 直島の氏の美術館にも行ってみたくなりました。

 

パンフレットより

 

 

 (おわり)