おひさしぶりです。なかなか更新できずにおりました。

 

 

 ③からのつづき

 

 

 (江戸時代末期)

 

・ 孝明天皇; 

 

 明治天皇の父。日米通商条約の締結に激昂。抗議の意味で譲位の意向を表明(結局、譲位は取り下げられる)。

 外国船の渡来状況や外交問題を朝廷に報告させる要求を幕府に認めさせる。

 幕府への不満が募る中、鎖国派が活性化。大老井伊直弼の安政の大獄と、その反発である桜田門外の変(井伊の暗殺)につながった。

 徐々に幕府への発言力、天皇の存在感を高めていった。

 公武合体(将軍家茂と皇女和宮の縁組)に尽力。ただ政権移譲や親政についての意図はなかった。

 尊攘派と公武合体(攘夷)派で対立。

 

 痘瘡(とうそう)(天然痘)に罹患。快方にむかったものの突如、様態が急変し崩御される。この著書では、ヒ素で毒殺された可能性を指摘している。

 討幕派が優勢に。

 

 →時代は、幕末の混乱期へ。

 

 

  (余談)

 

 長らく政治の舞台から退いていた天皇だが、国が存亡の危機を迎えると再び周りからその役割を要望される現象が起こる…

 

 国にもっとも必要な扇の要として「天皇」を選んだという歴史が日本史となった。

 

 400年以上続いた欧米列強による世界の植民地化政策は19世紀中頃にはいよいよ最終局面に入ることになる。

 

1838~40年 アヘン戦争

1842年 南京条約

1856~60年アロー戦争(第二次アヘン戦争)

1860年 北京条約

1867年(大政奉還)

 

 

 地政学的に西欧諸国から最も遠い中国・日本にも欧米勢力からの外圧・武力行使が始まる。

 

 日本は、欧米が植民地としていない最後の国家となった。(タイ(=シャム)、トルコなど例外あり)(清は半植民地)

 

 そのまま、このことは日本を詰めば世界征服が完了することを意味した。

 

 世界は王手をかけられていた。

 

 

 

 彼等の前に最終的に現れることとなったのが王政復古の号令を発した日本だった。(またこのことが世界史になったとも言える)

 

 

・ 明治天皇; 

 

 将軍徳川慶喜との大政奉還(1867年)。王政復古の大号令。五箇条の御誓文。

 

 日本の近代化に尽力。欧米と比肩する近代国家になるための要に。(明治維新・文明開化・脱亜論) 政府は新しい日本つくりに急旋回する。

 

 明治天皇を知っていても「何をした人か」と問われると、明確に答えられる人は少ないかもしれない。一言でこれに答えるなら「日本を近代化させ世界の大国に押し上げた偉大な天皇」となるのではないか。p.488

 

 

 

 ◇ 大日本帝国憲法での天皇についての記述;

 

 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

 とは、

 天皇の政治利用を禁じる。p.460 

 の意。

 

 あらゆる理由で天皇に政治責任が及ぶことを避けた当時の為政者たちの処世術でしょう。

 

 

 

 当時、帝国憲法審議のため枢密院に臨御なされた際、

 

「天皇は、微動だにせず、およそ彫刻のようだった。」p.489

 

 

 と、面会を果たした外国人が記録している。

 

 当時から政治とは一定の距離を取っていたことがわかる例。

 

 

 (お人柄)

 

 明治天皇は強い個性の持ち主でいらっしゃったようで、そのお人柄は大酒飲みで、風呂嫌い、写真嫌い、そして大の能好き、また生涯で約10万首の御製(天皇の和歌)をお詠みになるなど、個性的で頑固な印象を受ける逸話が伝えられている。最も強い傾向としては「義務感」を筆頭に挙げるべきだろう。天皇は生涯を通じて、立憲国家の君主としての義務に最も強い関心をお示しになり、自身の業績や評価などには全く無関心であらせられた。この御姿勢は御父孝明天皇と同じである。p.488

 

 

 

 大酒飲み、お風呂嫌い、写真嫌い…からなんとも個性ある、癖の強い…天皇陛下だった?

 

 西欧人画家(エドアルド・キヨッソーネ)が隠れながら描いた肖像画を御真影にした。

 

 

 ・二度の大戦(日清戦争と日露戦争)

 

 

 日ロ交渉で、満韓交換論を妥協案として提出するもロシアがこれを拒絶、日露戦争へ。

 

 明治天皇は開戦に慎重でいらっしゃったが、明治三七年(1904)二月四日、御前会議で対ロ開戦を裁可なさった。内廷に入御なさった明治天皇は「今回の戦は朕が志にあらず、然れども事既に慈(ここ)に至る、之を如何ともすべからざるなり」と仰せになり、続けて独り言のように「事万一蹉跌を生ぜば(失敗すれば)、朕何を以てか祖宗に謝し、臣民に対するを得ん」と仰せになり、涙を流したこと、そして、夜も眠れず、食事も通らず、健康を害するようになったことが記録されている。そして、明治天皇は二月五日、ロシアとの国交断絶を裁可なさった。p.475

 

 

 また明治天皇は大の戦争嫌いだったという。

 

よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ

 

明治天皇

 

世界の海は一つであるのに、なぜ波風が立つのであろうか、というこの御製はなぜ人々は争い戦争をするのかという、戦争そのものを憂う気持ちを詠んだものと思われる。p.479

 

 

 

 

 ◇ シラス;

 

 大日本帝国憲法第一条にある「統治ス」とは、古来より使われた「シラス」という意味。

 

 日本帝国ハ万世一系ノ天皇ノ統治ス所ナリ

 

「帝国憲法第一条」

 

 憲法の起草で井上が最も苦労したのは第一条だったと思われる。およそ憲法第一条には、国柄(国体)を明記するものである。「日本とは何か」という問いに答えなければならなかった。井上は2000年に及ぶ国史の事実を探求して、熟考した結果、『記』『紀』が用いた「シラス」の言葉を、帝国憲法第一条に使用した。「「日本帝国ハ万世一系ノ天皇ノ治(しら)ス所ナリ」と。井上はこの難しい設問に、日本とは「万世一系の天皇が治(しら)す国」であると答えたのである。p.458

 

↑当初の井上案では、「治(しら)ス」

 

 (大日本帝国憲法; アジア初の憲法)

 

 

 天皇は「シラス」存在であり、「シラス」とは民をよく知るの意。

 

 ・ 天皇は民をよく知ることによって国の運営に従事すべきだ、という(我が国固有の統治の)習い。

 

 既に使わていない言葉だったので仕方なく統治スに変更した。

 

 よって帝国憲法第一条の「統治ス」とは、日本固有の「シラス」と同義である。

 

 

 憲法作成に携わった重鎮、伊藤博文も『憲法義解』(帝国憲法解説書)の中でこのことに触れている。

 

 

 

 (余談)

 

 シラス統治は、天皇を国体とし、実務政治は別の者が行う二重政治構造を形成した。

 

 ウシハク統治は、シラス統治に対置する支配制度; 世界のどこにもある一枚岩構造の支配制度。

 乱暴に解すと、一番戦争がうまい(軍事力のある)者が政権のトップに立つ統治の習い。暴力に勝るものが後付けで自らを正当化する傾向がある。衰退&滅亡のサイクルが早い。世界中の王朝の盛衰の歴史を見れば、以て2~3百年。

 

 

  (余談)

 

 マックス・ウェーバー(1864~1920)

 

 長く安定した国家統治ができる支配の仕方、条件。

 

 ・ カリスマ的支配: 呪術的リーダー(宗教)

 ・ 伝統的支配: 前王(前指導者)の子孫。伝統的な規範。

 ・ 合法的支配: 法律。官僚制。

 

 

 

・ 大正天皇;

 

 

(前略)同乗した福岡県知事に「汝は煙草を好むや」と煙草を差し出したところ、知事は驚愕したとの逸話がある。 

 

寛容で親しみやすい。

居合わせた民間人にお声掛けする。

皇室と国民の距離が一気に縮まった。p.491

 

 

 漢詩好き。歴代ダントツ一位の1367首を御詠みになられる。

 

 戦後の天皇像の先駆け的存在。

 

 (余談)

 

 この本では、大正天皇のメンタルの御病気の噂については暗にしか書かれていなかった。

 

 

・  昭和天皇;

 

 世界の先進諸国が激しく覇権を争った20世紀。人類の歴史の中でもっとも混乱した20世紀中盤の天皇陛下。歴代先帝の中で最も苛烈な時代に在位する。また最も国際社会と対峙し、天皇制・国体の存亡の危機に直面することとなった。

 

 日本軍がフランス領インドシナを攻略すると、明らかに不満をあらわにされる。

 

 

 昭和天皇が懸念したこのフランス領インドシナ攻略が欧米の反発を招く。(援蔣ルート対策だった。アメリカは、中国国民党に物資を援助していた)

 

 日本に対する厳しいブロック経済政策(=ABCD包囲網)

 

 その後、米国からハル・ノートを突き付けられ、真珠湾攻撃に至る。

(戦っても負け、戦わずとも負け、という選択に窮する。)

 

 

 ハル・ノート(戦後東京裁判で開示)

 

日本軍がシナ大陸と仏印から全面撤退すること、蔣介石政権を承認すること、日独伊三国同盟を実質的に破棄することなどが記されていた。当時の日本が絶対に認めることができないことがいくつも列挙されていたのである。p.540

 

 

 できなければ、石油・鉄鉱石の輸出を全面禁止という通達。

 

 米国の東アジア介入。(機会均等法→中国のパイをよこせ法)

 

 日本の大義は、西欧からアジアの植民地を解放すること。(大東亜共栄圏)

 

 両者の思惑が交錯。

 

 

 

 ◇陛下は戦争に反対のお立場だった。

 

この要領は、陸海軍が戦争準備に入ること、そして十月上旬までに日米交渉妥協のめどが立たない場合は開戦することなどを記した「戦争計画」にほかならず、天皇は外交よりも戦争準備の方に重点が置かれていることに不満を見せた。p.533

 

 

 「独伊の如き国家とその様な緊密な同盟を結ばねばならぬような事で、この国の前途はどうなるか、私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる」(橋本徹馬『天皇秘録』1953)p.530

 

 

 昭和天皇は「南方作戦は予定通りできると思うか」「上陸作戦はそんなに楽々できると思うか」「九州の上陸演習では船が非常に沈んだが、ああなればどうか」「天候の障害はどうするか」と御下問を繰り返したが、何を聞いても「できる」と即答する杉山に、昭和天皇はいらだちを募らせていったと思われる。戦争計画の不備をあぶり出すために御下問は続いた。p.534

 

 

 

 敗戦。

 

 日本の壊滅的な被害。夥しい死傷者。あらゆるものが破壊され廃墟に。

 

 風前の灯。アメリカとソ連による、ハゲタカの争いのような国土の取り合いかと思われた。

 

 

 ◇敗戦直後のGHQ(連合国軍)総司令官ダグラス・マッカーサーとの初めての会談。

 

 戦争責任の文脈。

 

「責任はすべて私にある。」

 

「文武百官は、私の任命するところだから、彼等に責任はない。私の一身はどうなろうとも構わない。」

 

「国民のため私一人だけを処刑してほしい」(p.577)

 

 

 この言葉に、マッカーサーは天皇という存在を即座に理解したという。

 

 

「死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私を骨のズイまでもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとった。」と『マッカーサー回想録』で語られている。p.577

 

 

 

 てっきり命乞いしにきたと思っていたマッカーサーは驚き、最大限の敬意を払う。

 

 

  (余談)

 

 マッカーサーは、第一次世界大戦後、敗戦したドイツの皇帝ヴィルヘルム二世が命乞いしたことを聞き覚えていたか。

 

 

  (余談)

 

 昭和天皇の戦争責任についてはいまだに議論が尽くされていないとしこれを弾叫する人たちもいる。ここではあくまで著書をもとにした基調で書いています。

 

 

・ 今上上皇;

 

 先の大戦での犠牲者への謝罪、慰問、鎮魂。太平洋・アジア地域での犠牲者への謝罪、慰霊、鎮魂の旅。英霊(約310万柱)への謝罪、慰霊、鎮魂。過去の戦争への反省。二度と戦争を起こさない誓い。未来にわたる平和への祈り。

 

 阪神淡路大震災・東北大地震津波をはじめ避難所へ陛下自ら訪問し被災者の手を取られた。開かれた皇室への実現に一歩前進。史上、最も一般国民の心により添われた。

 

 平成の在位中30年間、戦争が起こらなかったことを心から安堵された。

 

 天皇陛下御製

 

 戦ひにあまたの人の失せしといふ海に横たふ

 

 皇后陛下御歌

 

 逝きし人の御霊(みたま)かと見つむパラオなる海上を飛ぶ白きアジサシ

 

 天皇陛下はご出発に当たり「太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います」と仰せになられた。この御訪問により、多くの人が、ペリリュー島が激戦地であったことを知ることになった。p.620

 

 

 

 

 (おわり)