(①からのつづき)
まずは、シェークスピアの詩です。
ああ神よ
朴訥な羊飼いの暮らしのほうが私にはよほど幸せに見えます
日時計の目盛りを一つ一つ丹念に刻みつけ
それを見て時の歩みを知る
何分でちょうど一時間になるか
何日で一年が終わるか
何年で人の一生が尽きるのか
それが分かると時間を振り分ける
そんなふうに名分 何時間
何日 何週
何ヶ月 何年かが
それぞれの使命を帯びて過ぎて行き
やがて白髪頭を静かな墓に送り込んでくれる
ああ何と素晴らしい人生だろう
ウイリアム・シェークスピア
もう一つ。
女の目から
学んだこと
…
女の目は
基礎であり
書物であり
学園だ
人に命を
吹き込む
プロメテウスの炎が
燃え盛る!
ウイリアム・シェークスピア
マンガ『7人のシェークスピア』に挿入されたシェクスピア(当人)の詩です。
このマンガは、彼の劇作家としての半生をマンガ化したもの。 (ある程度の資料に基づいたフィクションでしょう。)
ですので漫画の中にシェークスピアの詩をそのまま採用しています。
ウイリアム・シェークスピアは、(言うまでもなく)16~17世紀に活躍した英国の劇作家。代表作に『ハムレット』、『マクベス』、『リア王』、『オセロー』、『リチャード三世』、『ロミオとジュリエット』など。
あまり知られていないかもしれませんが、大詩人でもあります。
またシェークスピアはミステリアスな作家としても知られています。手紙、日記、自筆原稿といった本人に関する資料がありません。
バリバリのインテリというわけでもなかったのに古典や法律に精通していることなどから、 別人説や作家集団の総称説もあります。
このマンガでも、作品は七人の共同制作になっていますね。
(余談)
作家には、自身の情報を積極的に晒し、作品にその気配を匂わせるタイプと自身に関する情報を出さず自身を作品に全く結びつかせないタイプの二種類がいます。シェークスピアは後者。
作品主義とでも言うのでしょうか。作品と作家自身を完全に切り離すタイプです。
しかし詩人ではない(職業の)人の詩という趣旨から外れてしまいました。…
それは、
脚本に書かれた物語に詩を絡める手法が、マンガの詩のそれと似ているなぁと…
観衆は、物語を進めながら詩に出会う、という点でマンガの詩に出会う体験と同じ。
16世紀の英国と現在に使用された構造に共通するところがあって興味深い。
(そういえばゲーテの『ファウスト』も最後の方は、詩に溶けていきますね。)
あたりが、そのいいわけになります。m(__)m
まぁ、それをマンガで描かれたシェークスピア一座の様子を見ていて気づいたことになります。
※
なんにしても、古典の傑作を、いつものマンガで何気に知ることができるなんて便利でいい時代です。
マンガやアニメは今や市民権を得ているし、それをきっかけにする/それをきっかけにしたことを発表するのは、今やポジティブな意味合いとして受け取られるでしょう。
※
さらに、進みます。
近年映画化もされた岡崎京子のマンガ 『リバーズ・エッジ』から…
この街は悪疫のときにあって 僕らの短い永遠を知っていた
僕らの短い永遠
僕らの愛
僕らの愛は知っていた 街場レヴェルののっぺりした壁を
僕らの愛は知っていた 沈黙の周波数を
僕らの愛は知っていた 平坦な戦場を
僕らは現場担当者になった 格子を解読しようとした
相転移して新たな配置になるために
深い亀裂をパトロールするために
流れをマップするために
落ち葉を見るがいい 涸れた噴水をめぐること
平坦な戦場で僕らが生き延びること
漫画『リバーズ・エッジ』(岡崎京子)に出てくるウィリアム・ギブソンの詩
ウィリアム・ギブソンというアメリカ人SF作家の詩(ポエム)を借りた形式をとっています。
この詩は単体でも独立した完成度を誇っているようです。
独特の倦怠感がありますが、かっこいいですね。
ある独特の存在感を放っています。
ある時代の空気(’80~’90年代?)を如実に反映しているように感じます。(?)
この詩によって全体の雰囲気に統一感を持たせている。(?)
作品に深みを与えるため、
もっとも深い心理(感情)に降りていける表現である詩をアンカーにしている。
コラージュするように相互作用があってもおもしろいです。
(妄想)
神様は、平和にも微量の毒を仕込んでいる気がします。
平和に安穏し、胡坐をかいている、
長くおざなりにしていると毒の濃度を少しずつ高め
次第に人々の精神を蝕みます。
なぜ?と問われてもわかりません。メカニズムは神様にしかわかりません。
神は、何事もないように奇妙な毒をひっそりと足している。
継続している平和にわからない量で足している。
それは、平和に仕掛けられた時限装置(爆弾)のようなもの。
それは神様のいたずら?
ある臨界点に達っしていく毒は、事件発動への最終兵器みたいなもの。
神様はあらゆるものに”終わり”をセットしているのかもしれない。
長いあいだ、見てみぬふりしていると腐っていくものがある。
質を損ねてしまうもの。
だから平和もケアしなければならない。
もっとも尊いと信じられた平和の中にこそ、
もっとも気づきにくいもっとも強力な毒が醸造されている。
最終的に自己破壊願望に誘(いざな)う毒の培養装置(インキュベーター)。もし平和にそういう恐ろしい側面があるとしたら…
人間の「狂気」とは何?
精神分析学者ジークムント・フロイトの言う「死の欲動」とでも言うべきものでしょうか。(行き場のなくなったストレスは自己を攻撃する)
そんな今や古典となった精神分析学を持ち出しても何も変わらないでしょう。
『複製技術時代の芸術作品』の著者ベンヤミンのいう娯楽による「ガス抜き」が必要になります。
古代ローマ時代、人々が興奮した巨大コロッセオでの剣闘士たちの血で血を洗う闘い。
現代の娯楽(映画・マンガ)こそ、現代のローマの巨大コロッセオではないだろうか。
大衆が抱える負(魔?)のエネルギーをガス抜きする娯楽装置が社会には不可欠になります。
(犯罪映画を観る人の心理)
犯罪を映画化した映画にも一定の需要があります。それは観る側にも(ごく)わずかとはいえ、同質の狂気の存在を(どこかに)認めてしまっているからではないだろうか?…
そういう身の毛がよだつ狂気が自身の底にあるのを確かめたい…そんな心理が働いているのかもしれない…
見てみぬふりしてきた小さな狂気が、もっとも恐ろしく。
澄み切った湖底に閉じこめらた空気のように、突如、岩間から零れ、
気泡をつくり、上昇していく。圧力から解放されたその虚無、
水面に近づくにつれみるみる巨大になっていく空虚、無意味…
どうしようもないからっぽのひろがり。
そこから解放されようと、
意識にのぼる頃、恐ろしい惨劇が表面化する予感。
見て見ぬふりするのは危険。未然に防ぐ道を塞ぐ。
またただよくわからないものをすぐに自分の正体と考えるのも早計。
人間は複雑な存在だから。観方を変えればただ”複雑”なだけの問題とも言える。
※
「平和」と「狂気」には何らかの循環的なつながりがあるように思えます。
それは「戦争」と「平和」という対立軸とは異なる(次元の)軸にある関係です。
相互的にコミットしているというか…
むしろ「戦争」と「平和」はお互いを内包しあっている。
冷戦時代(実際に戦争がない状態での戦争意識状態)下の人々のメンタル・コンディションがどうなっていたのかには少々、興味が沸きます。
魂が無駄に消費されていることによって損なわれるものがある。
無意識からのアラートとでもいうのでしょうか…
太宰ではないけれど、
精神は真綿によっても首を絞められる。
心理学まで考えてみないと本当に「戦争」を無くすことはできないのではないかと思います。
平和も戦争も人間性の結果の現われそのものなのですから。
戦争が人間そのものの一結果(ある意味での表現)であるならば、戦争は人間がいなくならない限りなくならない。ですが、むしろそうやって前提化して(認めて)しまったほうが、そのことを絶対的な理由にして人間性の舵取りができる。それによって逆説的に戦争を防げるのではないかと思います。
少なくとも人間性の危険さに目を光らせることができますから。
まぁ、ここらへんは、一元的に考えない方がいいのでしょうけれど…
(少し、詩っぽさと批評のまじった文体になってしまいました…)
(余談)
このような閉塞(空間)での抗いは、ときに強い気持ちとなって芸術に表出します。
そして、マンガや映画、芸術の中で、狂気も含めた全てのストレス発散を完結してしまえばよいのです。(多少極論よりの持説)
それをエンターテイメントに還元したり、芸術の思想美に昇華させたり…まぁ、そこらへんの議論はあって然り。(個人的には、倫理は倫理の価値存在として大事だと思っています。実は人間の倫理観という存在にもまじめに惹かれています。)
※
(さいごにまとめ)
詩を作品に取り入れる作家は、とりわけ感受性の強い持ち主では?
詩ではなくとも、詩の雰囲気をまとった映画作品やマンガ作品はありますが、
こういう気質の人(作家)たちがつくるからこそ、自然にそうした作風ができるのでしょう。
マジョリティ(多数派)に紛れ込んだマイノリティ(少数派)芸術派。
こういう映画やマンガの持続化には一部の人たちの理解と支援が必要ですが、
その点、マンガや映画についてはある程度、成功しているようにも見えます。
長い拙文をお読みいただきありがとうございました。
(おわり)