『ヴィヨンの妻』を購入。
中・短編集。
・パンドラの匣
・トカトントン
・ヴィヨンの妻
・眉山
・グッド・バイ
収録。
読了
(簡単な要点)
パンドラの匣; 結核療養施設での若い男女間の恋愛意識。外部の人物に当てた手紙形式を採用。途中発覚した越後獅子(施設でのあだ名)の正体~詩人花宵先生の論。戦後まもなくにおける自由精神の行方。
トカトントン; 戦後まもなくの混乱期。どこからか聞こえる建築の音色、トカトントン。ある精神薄弱者の手紙。
ヴィヨンの妻; 太宰の妻がモデルか。大酒飲みで遊び人、借金暮らしがたたり、酒屋の店主夫妻に家まで押しかけられて…美人妻の一念発起。自身の生活を小説化しているのだろうか。
眉山; 贔屓の酒場で働く女中、眉山。容姿が悪いうえ、気の利かなさや、粗暴さで客に嫌われるが…最後に、酒飲み仲間皆がしんみりなることに。これも実際にモデルとなる人がいたのではと思わせる。
グッド・バイ; 太宰絶筆となった作品か。完成を待たぬまま筆を折る。途中、(未完)で、ストーリーが終わってしまう。女にモテた編集者が、そろそろ女遊びを止め真面目に暮らそうか思案している。何人もの愛人との縁を切るため、絶世の美女を利用しようと…
一部、目に留まった部分を書き出してみます。
よいものだと思った。人間は死に依って完成させられる。生きているうちは、みんな未完成だ。虫や小鳥は生きてうごいているうちは完璧だが、死んだとたんに、ただの死骸だ。完成も未完成もない、ただ無に帰する。人間はそれに較べると、まるで逆である。人間は死んでから一ばん人間らしくなる、というパラドックスも成立するようだ。
『パンドラの匣』p.44
この言葉は同時に下記の言葉を思い出させます。
死は、人生の終焉ではない生涯の完成である。
キリスト教 プロテスタントの祖マルティン・ルター(1483~1546)
人はパンのみにて生くるものにあらず。
新約聖書『マタイ伝』第四章 イエスの言葉
どれも精神的な生について語っていますね。
文学は人文学的なものです。
以下、再び『ヴィヨンの妻』からの抜粋です。
死と隣合わせに生活している人には、生死の問題よりも、一輪の花の微笑が身に沁みる。
『パンドラの匣』p.46
船は、板一まい下は地獄と昔からきまっていますが、しかし、僕たちには不思議にそれが気にならない。
『パンドラの匣』p.47
僕たちは命を、羽のように軽いものだと思っている。けれどもそれは命を粗末にしているという意味ではなくて、僕たちは命を羽のように軽いものとして愛しているという事だ。
『パンドラの匣』p.48
「いったいこの自由精神というのは、」と固パンはいよいよまじめに、「その本来の姿は、反抗精神です。破壊思想といっていいかもしれない。圧政や束縛が取りのぞかれたところにはじめて芽生える思想ではなくて、圧政や束縛のリアクションとしてそれらと同時に発生し闘争すべき性質の思想です。よく挙げられる例ですけれども、鳩が或る日、神様にお願いした、『私が飛ぶ時、どうも空気というものが邪魔になって早く前方に進行できない、どうか空気というものを無くして欲しい』神様はその願いを聞き容れてやった。然るに鳩は、いくらはばたいても飛び上がる事が出来なかった。つまりこの鳩が自由思想です。空気の抵抗があってはじめて鳩が飛び上がる事が出来るのです。闘争の対象のない自由思想は、まるでそれこそ真空管の中ではばたいている鳩のようなもので、全く飛翔ができません。」
『パンドラの匣』p.115
この「かるみ」は、断じて軽薄と違うのである。欲と命を捨てなければ、この心境はわからない。
『パンドラの匣』p.148
献身とは、ただ、やたらに絶望的な感傷でわが身を殺す事では決してない。大違いである。わが身を、最も華やかに永遠に生かす事である。人間は、この純粋の献身に依ってのみ不滅である。しかし献身には何の身支度も要らない。今日ただいま、このままの姿で、いっさいを捧げたてまつるべきである。鍬とる者は、鍬とった野良姿のままで、献身すべきだ。自分の姿をいつわってはいけない。献身には猶予がゆるされない。
『トカトントン』p.164
恋をはじめると、とても音楽が身にしみてきますね。あれがコイのヤマイの一ばんたしかな兆候だと思います。
『トカトントン』p.174
(前略)~終戦前までは、女を口説くには、とかくこの華族の勘当息子という手に限るようでした。へんに女が、くわっとなるらしいんです。
『ヴィヨンの妻』pp.202
「からかっちゃいけません。人間には皆、善意を行おうとする本能がある。」
『グッド・バイ』p.277
どの中・短編も話が丁寧に書かれていて読みやすいと思います。
ユーモアあり機知ありとおもしろいです。
さすが太宰治。
しかし、物語の持つ巧みな展開と読者に感動を与えるだけでは、本物の文学とは言えないでしょう。
少なくとも、文学の本懐を遂げているとは思えない。
太宰作品を読むと「文学」という概念を意識させられます。
それには何か理由があるはずで…
太宰作品を通して、それが何なのかを一度考えてみようと思います。
(つづく)