(おまけ)

 

少し、わかりにくいかもしれませんが、幸せの感じ取り方についてふと思ったことです。

 

主観と俯瞰の両方で、幸せに気づく体験をしている状態…

 

それが幸せをフルスペックで体験すると言えるのでは…

 

(総じて、あることをしている、ある状態にあるとき…)

 

まとめると、

幸せは、

主客同時体験することで、

初めて

フルスペックで感じ取れる

のかも

 

(心の中でのまとめのつもりです)

 

 

 

 主観、客観ともに現象界の想念に変わりはない。

 が、落ち着いているか、そうでないかで、ものごとの見方が変わってくる。

 

 ひとは、ものごとを主観的に見たり、客観的に見たりします。

 

 客観は、己の状態を冷静に俯瞰的に見ることにも通じます。まるで他人のように自分を見ることさえあります。

皆が、熱くなったりテンぱったりしているとき、ひとり落ち着いた判断ができる人だっていますね。

 

 たった今起こっている楽しいことや幸せなことを、ふと冷静に気づくという自己への観測態度を、どれくらいおこなってきたのだろう…

 

 そんな、なにげないじぶんへの疑問です。

 

 

 と言うのも、細かい話ですが…

 

 過去になるほど、”体験”は(今はもう過ぎた体験=記憶として)、相対化されるので、後から振り返る形で、「あの時は、幸福だったな…」と自覚しやすくなります。昔はよかったな、というのも過去の体験を俯瞰できるようになるからでしょう。

 

 とは言え、過去のものをいくら「よかった」と思えても今それがなければ、今の状態に対して不満になります。その意味で、今感じているものを今気づくということには意味があるように思えます。

 

 それに過去の記憶は、歪められ美化されることが往々にしてあります。都合の悪いことは忘却されたり改竄されてしまう。

 

 それが全て悪いことだというつもりはありません。嫌な過去も視点を変えれば、解釈の仕方が変わり、過去を変えられるというアドラー的な考え方もあります。それを逆手にとって(と言っては何ですが)、現在や未来を前向きに生きることに活かすことができます。現在の精神を安定させるためにもよいセラピーになるでしょう。

 

 

 しかし、ここで言いたいことは、…

 

 時が経つと、本当に幸福がその時あったのかは、自分自身でも正確に把握できない…それを自分の曖昧な記憶に頼るしかないからです。

 

 実際の実時間ではどうだったのかな、という疑いというか…

 

 とまぁ、つまり、なんだか自分は今までなんとなくぼおっと生きてきたなぁと…今頃思ったりして…

 

 記憶というのは曖昧なものなので、客観も含めた主観の中で証にできるものとは何?

換言すれば、幸せが本当にあったという確証を得るには?そんな質問に対する答えとは?

 

 「今現在、それを感じている自分を俯瞰して自覚できるなら、間違いない体験だ」ということではないのか…

 

 月日が経った後でも、そう自覚したこと自体を思い出せば、確認できます。

 

 そういう意味で、貴重な体験の時間帯なのかな、と思った次第です。

 

 

 

(おわり)